「銀河鉄道の夜」保阪嘉内と宮沢賢治その1 |
いよいよというか
やっとこういう時代がやってきた!!
いわゆるこれまでの偶像化された
・自己犠牲の義人としての賢治や
・求道の聖人賢治ではない
生きた、生身の人間としての賢治が
語られる日が
今もう、来ている。
普通の人間としての
賢治でもあります。
私も宮澤賢治に魅せられた一人です。
賢治の言葉や童話に
・魅せられ、
・救われ
・心を浄化され
・元気をもらいながら
生きてきた人間です。
苦しい時はいつも
抽斗をあけてすぐ
「注文の多い料理店の序」が
取りださせるようしていました。
だから賢治はいつもわたしのそばにいる
親友でもありました。
しかし
私は世間一般のような
・自己犠牲や求道の賢治像ではなく
むしろ反対の賢治、
・わたしたちと同じように
・不安の中をさまよい
・繊細な感情と
・存在の脆弱さをもっている
ひとりの人間として
賢治を見てきました。
だから「グスコーブドリ」の童話は
あまり好きではなく
むしろ
人間臭い作品のほうに惹かれていました。
それと
これは私の一貫した認識ですが
たとえ偉人とか聖人とかいわれる人間も
ある部分ではそうかもしれないが
しかし
そういうひとだって
いいとこ半分悪いとこ半ぶんの
私たちとはそうそう変わらない
意志も弱く、傷つきやすい
生身の人間であろうと
思っています。
またずっと脳と脳科学のことを
独学で勉強してきましたから、
宗教も
人間の脳が創りだしたものであると
考えていますし
時代はすでにそういう風に向かっています。
だから私の書いた本「拝啓宮澤賢治様」の
サブタイトルも
「不安の中のあなたへ」と
しました。

つまり賢治の後ろには
いつも薄暗い不安や悲しみが
はりついている。
という感想を、
ずっともっていたからです。
そして今回私の本を叩き台にして
海山かのんさんに
さらに海山さんが感じ取り
読み取った賢治像を
漫画にしていただくように
お願いしました。
事と次第によっては
私の原作が否定されてもかまいませんから・・・と
お願いしました。
そういう訳でわたしとしてはこの
<賢治プロジェクト>のプロデユーサー的な
役割をしながら
海山さんの仕事をサポートしていると
いう訳です。
それで
一昨日と昨日
海山さんと一緒に
保阪嘉内についての取材に
韮崎までいってきました。
が
取材から帰っても
私の脳はず~っと保阪嘉内と賢治のことを
考え、追い続けている。
なぜならすごい衝撃的な
事実を知らされた取材だったからです。
保阪嘉内については
保阪嘉内のお孫さんである
新村美佳さんと和人さんご夫妻に
嘉内ゆかりの地を案内していただき、
また
韮崎の「保阪嘉内・宮沢賢治・アザリア記念会」の
事務局長の向山三樹先生と蟹沢先生には
もう、
衝撃的な、
資料を見せていただきながら
衝撃的なお話を
伺いました。
多分通算で6時間くらいかな~!
資料は
保阪嘉内の家族の方が
ずっと丁寧に保管されていた
たくさんの資料です。
その中には
宮澤賢治からきた
嘉内のあてた手紙の73通あり
それはいま、山梨県立文学館に
保存されています。
私たちはその手紙以外の
嘉内氏が丁寧に
保存していた手帳や日記や絵を見せていただきながら
逐一向山先生からそれらの説明やお話を
聞かせていただいたのです。
だから帰宅してからずっと
私の脳天は
そのことでいっぱいで
ついさっきまで
自分の手元にあった
嘉内に関する資料を
読み返していたところです。
それでね
今回の取材をとおして
嘉内のことも含めて
新しい賢治のことを
少しかいてみようと思います。
そして私も歳ですから
もう詳しく資料を再点検するのは
面倒くさいので
そういうことは書きません。
反対にどんどん、ずばずばと
私の感じた<人間賢治>を
書こうとおもいます。
それに
いよいよ時代も
皆さんも
ほんとうのことをしりたいでしょ!!
ただね、あくまでもこれは
私、田下啓子が考えた賢治像であり、
それがはたして
真実かどうかも
また指摘が
当たっているかどうかは
分りません。
しかし
私が感じたことを正直に書きますので
それを頭において
読んでください。
また海山かのんさんは
彼女自身のイメージを膨らませて
漫画を描いてくれると思いますので
また私とは違った賢治かもしれませんよ。
それもまた
楽しみにしています。
では、いきましょう!!
保阪嘉内は
盛岡高等農学校で宮沢賢治が2年生の時に
新入生として入学してきました。そして
嘉内は賢治が室長をしている寮の部屋に入ります。
実は嘉内と賢治は同じ年なのですが
嘉内が東北大学と札幌農科大学の受験に
失敗し、一年浪人して
翌年盛岡高等農学校に合格したために
嘉内が一年下の学年になりました。
嘉内は札幌農科大学のクラーク博士に
心酔し、
さらにトルストイの影響を受けており、
当時の封建的で疲弊している農業および
農村改革の理想に燃えていた
青年です。
●資料1 小説「若葉の朝・・・我理想の村・・・」
実はこれは嘉内が中学4年生(18歳)の時に書いた
小説です・・・が。
この小説には嘉内が考えた理想の村、
共同体としての理想が書かれています。
村は花壇や果樹園に囲まれ美しく
そして時計台や公会堂や病院や図書館までが
整備されています。
公会堂には、常時料理人がいるレストランがあり
村人は家での料理が面倒な場合は
公会堂で安く好きな食事をすることができるのです。
さらに図書館では
新聞や雑誌も見られ、
活動写真や芝居やそれに
ビリヤードもできる。
そしてさらに浴場も完備しているのです。
この理想の村の青写真を
嘉内が盛岡高等農林にいく前に
もう描いていたのですね。
そこには
芸術をベースにした
理想的な農村が描かれています。
どうですか・・・。
賢治の
あのポラーノ広場や
農民芸術概論は
実は
この嘉内のアイディアを
原案にして
賢治が嘉内から
聞かされてのものが
ヒントになってないでしょうか・・・。
それともうひとつ
●資料2 「ハレー彗星之図」

これは嘉内が中学1年生(14歳)のときに
スケッチしたハレー彗星です。
そしてこの図には
「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ」
と書いてあります。
どうでしょう?
この銀河鉄道の構想も
嘉内から賢治へと
つたえられたのではないでしょうか?
実は嘉内少年というのが
早熟だったらしいです。
だから
文学や芸術に通じ
更には東京までしばしば
歌舞伎や芝居を見ていっており
彼が盛岡高等農林に入学したときには
個性あふれ多芸多彩の異才を放っていたそうです。
だから室長ではありますが
賢治と彼はすぐに出会いの喜びの中で
同化していったようです。
当然のごとく嘉内はどんどん高等農林の中で
存在感をしめしていきます。
そして学校が発行する学友雑誌とは別の
自分達だけで自由に作品を発表する場としての
文芸同人誌「アザリア」を組織し
発行していきます。
中心メンバーは勿論嘉内、賢治そして
河本義行、小菅健吉です。
これはその4人が写っている写真です。

後ろ左から保阪嘉内 宮澤賢治
どうですか?
小菅君はいかにも質実剛健で行動派のようです。

河本君は、いかにも頭が良さそですね。知的な文学青年のようですね。

そして嘉内はどうでしょうか。

子の写真ではちょっとお茶目な優しい青年のようにみえますが・・・。

実はある事件が起きて
嘉内の顔がその後の写真では
かなり変化しているように
私にはみえました。
その事件のことはおいおい書いていきます。
そしてもうひとつ
賢治の代表作である
「風の又三郎」もまた
嘉内の故郷の八ヶ岳にある峰
「風の三郎岳」からヒントを得たのではないかと
考えられます。
この四人は
河本も小菅も嘉内も
当時ではかなり高水準の知的教養を
持っており
むしろ賢治は彼らに圧倒されていたかも
しれません。
それがなんとなく賢治の顔に
現れているような気もしますが、
どうでしょうか。
さて今日はここまでで
お終いにしますが
自次回また
続きをかきます。
では
また。

