2018年 01月 15日
私の仕事、その10 |
シリーズ「私の仕事、時代の不安とどう向き合うか」を書きながら、
雑駁に明治からの日本の流れを俯瞰してみたが、
西郷はなぜ死ななければならなかったのか、
反対に竜馬はかくも斬新な感覚のビジョンを持ち得たのかを
考えるうちに、では、
明治という時代にとって、
新しいとはなにか、
反対に旧いとはなにかが
浮かんできました。
西郷が死ななければならなかったのは、
古い武士道を捨てきれなかったという
西郷の頭の中の古さや、
西郷の頭の中にあった諸々が、
新しいビジョンを描ききれず、
新政府についていけない若者達を
新しい時代へと編集、組織できなかったのでしょう。
それにその時にはもう竜馬は死んでしまいましたから、
知恵袋になる人もいない。
新しい西欧の知識や生活様式、
さらに新しい価値観や優先順位などなどを受け入れるには、
やはり自分の思いこんだ世界を洗いなおし、
捨てる必要があります。
武士としての精神性の意識の思いこみが深い西郷にくらべ、
竜馬の方がさっさと武士なんか捨てて、
商いをしうよと考えていたのですから、
よほど竜馬の方が現実がしっかり見えていたと思います。
西郷に比べて竜馬の方が、よほどこの世(幕末)は
非合理な世だと感じていたでしょう。
また下級も下級の岩崎弥太郎なども、同じ意味で
サッと武士から商いへと変身していきます。
考えて見ると、脳の世界は刻一変化をしています。
少なくとも脳の感性や感覚はありのままをみているでしょうから、
微妙な変化を感覚のセンサーは感じとっているはずなのですが、
問題は意識です。
つまり、人間の思いこみはそうそう変化することができません。
新しいことを仕入れていくには、まず、
自分の思いこんでいることが、
古いかどうかを検証しなければなりませんし、
プライドが高い人ほど新しいことを受け入れられません。
つまり学識が高い人間や、
階級社会の上位にいた人間の方が
失うものが大きいぶん、なかなか融通が利かないのです。
私が出遭った人達においても、
ほんとうに前を向こうとしている人は
ドンドン自分に気づいていきますが、
過去の自分に拘泥しているひとほど、
<気づく>ことに抵抗します。
それは得てして高学歴の人のほうが多いです。
<気づく>ということは、
自分の感覚や感性が仕入れる情報や風景に対して
敏感である、ということでもあります。
反対に意識が勝ってしまうと、
その感覚や感性が仕入れることを
逆に意識で遮断し、鈍くさせてしまうこともあります。
特に感情が激しく意識を規制していると
感情の中のマイナス要素である、不安や怯えのほうが
勝ってしまい、
新しいことをあえてカットするような
心理が出来上がってきます。
自分が安心するためには、古い意識にしがみつき
古い感覚や感性でいた方がいいのですね。
今までの自分を捨てるということのほうが
とても恐ろしいのです…苦笑!
さて、明治の事を考えながら、ふと、
では現代において
・新しいこととは何なんだろう。
逆に
・旧く廃れていくこととは何だろうという考えが、
浮かんできました。
もしかして、
新しい人たちとは、
現代の最先端のITを駆使したビジネスをやり、
世界市場を視野にしている人たちや
SNSを駆使し、ツイッターでつぶやいて、
一日に何度も自分を発信しているひと達でしょうか?
逆に
古い人とは、パソコンもろくに扱えず、
自分の周辺しか視野に入れず、
SNSもツイッターをもやらないひとたちでしょうかね~?
ただね、
あくまでもITやAIは道具や方法にすぎません。
新しい道具や方法なのです。
SNSもツイッターも同じです。
そしてそれらを使う事が新しいと思う人は
もしかしたら、大いなる勘違いをしているかもしれません。
なぜかというと
ITやSNSやツイッターは、不特定多数を相手にしているということです。
では、人間がなぜ不特定多数を相手にするか・・・ということが
実は問題なのです。
不特定を多数を求める人間の心理が、実は問題なのです。
反対にいうと、自分に自信があり、
特定の人で満たされている人は
不特定多数を相手にはしません。
特定の人というのは
自分の家族や友人や、職場の人や、その他
自分の周辺にいる人たちです。
自分が直接絆を結んでいる人達で
それらの関係において何らかの充実をしている人は
不特定多数を相手にしなくても、自分が満たされているのです。
断っておきますが、私はSNSやツイッターを否定するのではないのです。
私自身もSNSをやっていますからね…笑!
ただそれも道具と方法として限定しながらやっています。
もしかしたら不要かな~といつも思いながら、思案中です。
ただ、何が新しいのか、ということにおいて
SNSやツイッターの対象が何を求めているのかを
考察しているのです。
しかし、かくもSNSやツイッターが広がることを見ると
現代の人達がいかに充足や充実から疎外されているかが
分かります。
不特定多数を相手にすることは、本当は虚しいことでもあります。
しかしそれが虚しいことである、ということに気づいてゆくには
時間の経過、時代の経過が必要です。
そしてほんとうに見抜かなければならないことは
SNSやツイッターの陰で見えなくなっている
個人がより個として隔離され始めている時代とは、
また、多くの人のフラストレーションを産んでいる
時代とはなにかが、
問題なのですね。
ITの時代は、パソコンという道具を使えば、
なんだか世界が近くなったような、
友だちがふえたような、
ものごとが簡略にできるような、
短絡を意識の中に産みます。
確かにこれまでに比べたら、情報は世界中を走りますし、
ビジネスにとっても有効であることも、その通りです。
だから、それを 否定する気はありませんが、
今までの周辺の人間を越えて世界と繋がることもできますから
その効果もまた大きいこともありますが・・・。
ありますから、またそこにIT幻想がうまれるのも仕方のないことですが。
新しいITの時代、SNSやツイッターを駆使することで
<私>は変わっただろうか?
<わたし>は充実し、満たされているのだろうか?
確かに毎日SNSをやることで充実するということもあるでしょう。
しかし、ほんとうに、<私>は充実しているかどうか。
自分が自分で満たされてくると、
自分は自分でどんどん完結していきますから、
そこからは目標や対象が明確になってきます。
私も私の言葉を理解してくださる方々を対象に(心に描きながら)
このブログを書いております。
そして、ほんとうに凄いこと、今までにはないことを発信する人達は、
決して不特定多数を相手にはしていません。
そこは●確実に手渡さすことを範疇にいれながら、
作品を作り、発信をしていると思います。
例えばダルデンヌ兄弟の映画などは確実にそう思えます。
それは、分かってくれる人を対象に映画を造っているように思いますし、
イ・チャンドン監督の映画などもそう思います。
そこにはいわゆる<説明>的なものが削ぎ落されています。
さらに自分や自分の作品を発信して行く人は
そこに新しさや、今までにはないものを展開すことの
難解さや困難さを承知の上で発信していると
私には思えるからです。
不特定多数ではない、
つまり、誰も彼もではないはずです。
それほど新しい世界を、切り開くのは、大変なことです。
大変なことの第一は
自分が、既に新しくなくてはならないのですからね。
だからこそ、新しいことや、未明のことをやるには
発信して、それがこま切れにならないように、
じっと腹の中や肝の中で温めておくことが必要なのです。
簡単には外に出さず、安易には人に知らせないのです。
新しいということは
新しい道具や方法を使いこなすことではなさそうです。
新しいということは
新しいこと、つまり、今まで自分が思いもしなかったことを
発見する、ということです。
自分が囚われ、縛られていたことを発見し、
そして自分が新しい自分に生まれ変わるということだと思います。
それは、自分という人間を手掛かりに、
自分には納得がいかないこと、
自分を嫌な関係、ストレスになる関係に陥らせている自分が
既成観念であり自分の思い込みの意識に斬り込むのです。
斬り込み、考え、発見して
自分がイキイキとする関係、ストレスにならない関係へと
脱皮することです。
それはパソコンを使えなくても、
ITやSMSやツイッターをやらなくても、
日々感覚や感性が敏感にはたらき、
どんな日々がきても、それを受け入れることができる柔軟さを
もっていると
日々はどんどん新しく、脳が刻々と変化する内容を
意識でキャッチすることができます。
明治はただ単に欧米諸国の文化と文明に圧倒され、憧れ、
それを模倣し、さらにそこに潜む、世界制覇の夢までをも真似して、
見事に日本は崩壊しました。
司馬さんはだからこそ、日本は「鬼胎」を孕み昭和へと突入していった。
その始まりは明治の時代だと書いているのです。
そして更にボタンを掛け違えたのは昭和です。
ほんとうは大久保や伊藤も、
西郷らの古い意識の中にあるものも理解し、
抱え込みながら(共有しながら)、
もっと用心深く、慎重に
日本の歴史と伝統と文化を足場に、さらに西欧の良きところを
付け加えていく、ということができたら、
日本はもっと違う国になっていたかもしれません。
しかしこれも結果論です。
当時は欧米の植民地にされないために、
事を急ぐ必要がありましたからね。
彼らも必死でした。
でもこう考え俯瞰して時代を見ると、もう
たくさんのことを教えられます。
現代の人はもう明治のことも大正のことも、昭和のことすら
むかし昔のことになっているかもしれません。
しかし、現代の人間が、明治や大正や昭和の人間に比べ、
満たされ、幸福感に満ちているかというと、どうでしょうかね~。
現代の人は次への青写真をもっているのでしょうか。
拙速に、安直に安易に、時代に染まらない!
簡単には踊らない!
分母に不安を抱えている人間、
分母に自信がない自分を抱えている人間ほど
安直に時代にのっかり、時代に踊ります。
多分、ほんとに心ある人たちは
新しい人たちは
時代の底の底にいて、この時代を睨み、
軽々には動かず
じっと成り行きをみているでしょう。
どうぞ、そういう人になってください。
私の同志たちよ!


雑駁に明治からの日本の流れを俯瞰してみたが、
西郷はなぜ死ななければならなかったのか、
反対に竜馬はかくも斬新な感覚のビジョンを持ち得たのかを
考えるうちに、では、
明治という時代にとって、
新しいとはなにか、
反対に旧いとはなにかが
浮かんできました。
西郷が死ななければならなかったのは、
古い武士道を捨てきれなかったという
西郷の頭の中の古さや、
西郷の頭の中にあった諸々が、
新しいビジョンを描ききれず、
新政府についていけない若者達を
新しい時代へと編集、組織できなかったのでしょう。
それにその時にはもう竜馬は死んでしまいましたから、
知恵袋になる人もいない。
新しい西欧の知識や生活様式、
さらに新しい価値観や優先順位などなどを受け入れるには、
やはり自分の思いこんだ世界を洗いなおし、
捨てる必要があります。
武士としての精神性の意識の思いこみが深い西郷にくらべ、
竜馬の方がさっさと武士なんか捨てて、
商いをしうよと考えていたのですから、
よほど竜馬の方が現実がしっかり見えていたと思います。
西郷に比べて竜馬の方が、よほどこの世(幕末)は
非合理な世だと感じていたでしょう。
また下級も下級の岩崎弥太郎なども、同じ意味で
サッと武士から商いへと変身していきます。
考えて見ると、脳の世界は刻一変化をしています。
少なくとも脳の感性や感覚はありのままをみているでしょうから、
微妙な変化を感覚のセンサーは感じとっているはずなのですが、
問題は意識です。
つまり、人間の思いこみはそうそう変化することができません。
新しいことを仕入れていくには、まず、
自分の思いこんでいることが、
古いかどうかを検証しなければなりませんし、
プライドが高い人ほど新しいことを受け入れられません。
つまり学識が高い人間や、
階級社会の上位にいた人間の方が
失うものが大きいぶん、なかなか融通が利かないのです。
私が出遭った人達においても、
ほんとうに前を向こうとしている人は
ドンドン自分に気づいていきますが、
過去の自分に拘泥しているひとほど、
<気づく>ことに抵抗します。
それは得てして高学歴の人のほうが多いです。
<気づく>ということは、
自分の感覚や感性が仕入れる情報や風景に対して
敏感である、ということでもあります。
反対に意識が勝ってしまうと、
その感覚や感性が仕入れることを
逆に意識で遮断し、鈍くさせてしまうこともあります。
特に感情が激しく意識を規制していると
感情の中のマイナス要素である、不安や怯えのほうが
勝ってしまい、
新しいことをあえてカットするような
心理が出来上がってきます。
自分が安心するためには、古い意識にしがみつき
古い感覚や感性でいた方がいいのですね。
今までの自分を捨てるということのほうが
とても恐ろしいのです…苦笑!
さて、明治の事を考えながら、ふと、
では現代において
・新しいこととは何なんだろう。
逆に
・旧く廃れていくこととは何だろうという考えが、
浮かんできました。
もしかして、
新しい人たちとは、
現代の最先端のITを駆使したビジネスをやり、
世界市場を視野にしている人たちや
SNSを駆使し、ツイッターでつぶやいて、
一日に何度も自分を発信しているひと達でしょうか?
逆に
古い人とは、パソコンもろくに扱えず、
自分の周辺しか視野に入れず、
SNSもツイッターをもやらないひとたちでしょうかね~?
ただね、
あくまでもITやAIは道具や方法にすぎません。
新しい道具や方法なのです。
SNSもツイッターも同じです。
そしてそれらを使う事が新しいと思う人は
もしかしたら、大いなる勘違いをしているかもしれません。
なぜかというと
ITやSNSやツイッターは、不特定多数を相手にしているということです。
では、人間がなぜ不特定多数を相手にするか・・・ということが
実は問題なのです。
不特定を多数を求める人間の心理が、実は問題なのです。
反対にいうと、自分に自信があり、
特定の人で満たされている人は
不特定多数を相手にはしません。
特定の人というのは
自分の家族や友人や、職場の人や、その他
自分の周辺にいる人たちです。
自分が直接絆を結んでいる人達で
それらの関係において何らかの充実をしている人は
不特定多数を相手にしなくても、自分が満たされているのです。
断っておきますが、私はSNSやツイッターを否定するのではないのです。
私自身もSNSをやっていますからね…笑!
ただそれも道具と方法として限定しながらやっています。
もしかしたら不要かな~といつも思いながら、思案中です。
ただ、何が新しいのか、ということにおいて
SNSやツイッターの対象が何を求めているのかを
考察しているのです。
しかし、かくもSNSやツイッターが広がることを見ると
現代の人達がいかに充足や充実から疎外されているかが
分かります。
不特定多数を相手にすることは、本当は虚しいことでもあります。
しかしそれが虚しいことである、ということに気づいてゆくには
時間の経過、時代の経過が必要です。
そしてほんとうに見抜かなければならないことは
SNSやツイッターの陰で見えなくなっている
個人がより個として隔離され始めている時代とは、
また、多くの人のフラストレーションを産んでいる
時代とはなにかが、
問題なのですね。
ITの時代は、パソコンという道具を使えば、
なんだか世界が近くなったような、
友だちがふえたような、
ものごとが簡略にできるような、
短絡を意識の中に産みます。
確かにこれまでに比べたら、情報は世界中を走りますし、
ビジネスにとっても有効であることも、その通りです。
だから、それを 否定する気はありませんが、
今までの周辺の人間を越えて世界と繋がることもできますから
その効果もまた大きいこともありますが・・・。
ありますから、またそこにIT幻想がうまれるのも仕方のないことですが。
新しいITの時代、SNSやツイッターを駆使することで
<私>は変わっただろうか?
<わたし>は充実し、満たされているのだろうか?
確かに毎日SNSをやることで充実するということもあるでしょう。
しかし、ほんとうに、<私>は充実しているかどうか。
自分が自分で満たされてくると、
自分は自分でどんどん完結していきますから、
そこからは目標や対象が明確になってきます。
私も私の言葉を理解してくださる方々を対象に(心に描きながら)
このブログを書いております。
そして、ほんとうに凄いこと、今までにはないことを発信する人達は、
決して不特定多数を相手にはしていません。
そこは●確実に手渡さすことを範疇にいれながら、
作品を作り、発信をしていると思います。
例えばダルデンヌ兄弟の映画などは確実にそう思えます。
それは、分かってくれる人を対象に映画を造っているように思いますし、
イ・チャンドン監督の映画などもそう思います。
そこにはいわゆる<説明>的なものが削ぎ落されています。
さらに自分や自分の作品を発信して行く人は
そこに新しさや、今までにはないものを展開すことの
難解さや困難さを承知の上で発信していると
私には思えるからです。
不特定多数ではない、
つまり、誰も彼もではないはずです。
それほど新しい世界を、切り開くのは、大変なことです。
大変なことの第一は
自分が、既に新しくなくてはならないのですからね。
だからこそ、新しいことや、未明のことをやるには
発信して、それがこま切れにならないように、
じっと腹の中や肝の中で温めておくことが必要なのです。
簡単には外に出さず、安易には人に知らせないのです。
新しいということは
新しい道具や方法を使いこなすことではなさそうです。
新しいということは
新しいこと、つまり、今まで自分が思いもしなかったことを
発見する、ということです。
自分が囚われ、縛られていたことを発見し、
そして自分が新しい自分に生まれ変わるということだと思います。
それは、自分という人間を手掛かりに、
自分には納得がいかないこと、
自分を嫌な関係、ストレスになる関係に陥らせている自分が
既成観念であり自分の思い込みの意識に斬り込むのです。
斬り込み、考え、発見して
自分がイキイキとする関係、ストレスにならない関係へと
脱皮することです。
それはパソコンを使えなくても、
ITやSMSやツイッターをやらなくても、
日々感覚や感性が敏感にはたらき、
どんな日々がきても、それを受け入れることができる柔軟さを
もっていると
日々はどんどん新しく、脳が刻々と変化する内容を
意識でキャッチすることができます。
明治はただ単に欧米諸国の文化と文明に圧倒され、憧れ、
それを模倣し、さらにそこに潜む、世界制覇の夢までをも真似して、
見事に日本は崩壊しました。
司馬さんはだからこそ、日本は「鬼胎」を孕み昭和へと突入していった。
その始まりは明治の時代だと書いているのです。
そして更にボタンを掛け違えたのは昭和です。
ほんとうは大久保や伊藤も、
西郷らの古い意識の中にあるものも理解し、
抱え込みながら(共有しながら)、
もっと用心深く、慎重に
日本の歴史と伝統と文化を足場に、さらに西欧の良きところを
付け加えていく、ということができたら、
日本はもっと違う国になっていたかもしれません。
しかしこれも結果論です。
当時は欧米の植民地にされないために、
事を急ぐ必要がありましたからね。
彼らも必死でした。
でもこう考え俯瞰して時代を見ると、もう
たくさんのことを教えられます。
現代の人はもう明治のことも大正のことも、昭和のことすら
むかし昔のことになっているかもしれません。
しかし、現代の人間が、明治や大正や昭和の人間に比べ、
満たされ、幸福感に満ちているかというと、どうでしょうかね~。
現代の人は次への青写真をもっているのでしょうか。
拙速に、安直に安易に、時代に染まらない!
簡単には踊らない!
分母に不安を抱えている人間、
分母に自信がない自分を抱えている人間ほど
安直に時代にのっかり、時代に踊ります。
多分、ほんとに心ある人たちは
新しい人たちは
時代の底の底にいて、この時代を睨み、
軽々には動かず
じっと成り行きをみているでしょう。
どうぞ、そういう人になってください。
私の同志たちよ!


by denshinbashira
| 2018-01-15 11:42
| 私の仕事
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