2018年 01月 16日
私の仕事、その11、私の仕事! |
昨日は書きながら気持ちが高揚し、
同志と書いてしまいましたが、
長文で読みづらいこのブログを読んでくださっていることには
感謝満載です。
ほんとうは鴨長明のごとく、普段は山の中に隠棲して
下界を眺め、下界で何かが起きたときには、
山から下りてきて見て調べるといきたいのですが、
しかし私は下界のまっただ中に生きている。
そして時代は洪水のように情報が押し寄せて来る中で
本来は軍の道具であったインターネットが、
今は世界を創りつつあること。
コンピューターも道具でありながら、
そこから生まれるAIが、
もしかしたら世界を呑みこんでいくかもしれない。
そういう予兆を感じなくもないのが、
現代のSNSやツイッターの類です。
ITやAIの世界で、いとも簡単に、
情報が錯綜し、
世界のリーダーをはじめとする人間がうかうかと
ツイッターをやっている。
トランプの軽薄なツイッターが流れ、
それに世界がこれまたうかうかと反応する。
本来人間がいきてゆくには
広範で複雑なことを視野に入れながら、
言葉を吐く、行動するということが重要で
それには思慮と<魂胆>が必要です。
<魂胆>とは本来はたくらみというあまり良い風には使われないが
しかし、物事はいったん<キモ>の中に溜めて、
時間の推移の中で濾過してこそ、ようやくそこに本質が顕われてくる。
だからスケールが大きい人間であればあるほど
ものごとをすぐに表現せず、決着せず、キモの中に
溜めて、機が熟するまで寝かしておく。
残念なことに
そういうことができない人間が
世の表面でボウフラのようにうようよして、詭弁が横行し、
さらに世界を作り上げている。
本来人間はそれぞれの人間すべてが違っている世界を
生きているものであるが、
しかしどういう訳か人間は、
自分と他者とが同じであると錯覚の中を生きてしまいます。
例えば林檎が描いてある絵をみても、
その解釈はひとそれぞれが全く違う。
ある人は林檎の色に、反応して綺麗だな~と。
ある人は林檎の形に反応し、丸くて可愛いな~と。
ある人は林檎の味を思い浮かべ、美味しそうだな~と。
ある人は林檎の思いでに反応し、あの時のリンゴ・・・と。
という風に、
それはその人間の脳の内容に、
それぞれが連鎖していくからです。
その反応は千差万別であるにもかかわらず、
私たちは、無意識に、
他人と自分との林檎が同じだと思いこんでしまう。
これが<わかっているつもり>の世界であり、
この<わかったつもり>で生きている人間の方が多勢なのです。
※この<分かったつもり>の正反対というか
人間として熟してくるにつれ、<まだまだ何もしらない>という
謙虚の極みに達するのですが、
困ったことに高学歴の人間ほど<わかっているつもり>の世界に
陥りやすい。
人間の脳の機能がなぜ、こういう風になったかというと
二足歩行になった人間の子供の、
親と密着する成育期間が
20年近くと、あまりにも長いせいなのか、
人間が他者と一緒にいきざるをえないからか、
逆に他者と一緒に生きるために、
脳が仕組んでしまったのかは
わかりませんが、
この無意識の錯覚や、
そこからくる自分の無防備さを認識、理解できない人間ほど
軽々しく自分の魂胆を明かしてしまう。
言葉を吐いてしまいます。
※私はずっとこのブログで、
「言葉はそれが熟するまでは、
しゃべってはいけない」と書いてきた。
こう書きながらイ・チャンドンの映画「オアシス」を思いだす。
この映画にはまさしく、人間の心の中は見えないこと。
見えない故に、
人間は他者や相手を自分流に解釈してしまうこと。
映画の中の<ホン・ジョンドゥ>の心の中も<コンジュ>の心も、
二人の真実も
そのほんとうのことは二人以外には分らない。
そして二人共がその誤解をひきうけたまま生きていきます。
そういう人間の認識の危うさをイ・チャンドンが描いています。
<IT幻想>はまさに、ここのところが抜けている故に
拡大していっている。
自分のことなど他者はわかりえないという時、
では、
自分と他者をも繋ぐために、
自分と他者とが分かり合えるように、
何をどのように工夫し、
厳選し、具体的に
言葉や映像にしていくか、
それを思慮し,熟慮する事こそが、
人間の仕事であると
私は考えている。
ITもAIも道具であることをしっかり認識して
それをどのように使うかを人間は問われています。
人間はITもAIもそれをどのように使うか、
或は
使わないか、を選択しなければならない。
その選択こそ人間が人間たることであり、
自分たちが作り出したものに振りまわされたり、
呑みこまれりしないことです。
実のところ私は次に確実にくるであろう
AI世界を思いながら危惧をしている。
していた・・ともいえる。
その中で一つ見えてきたのは
ITもAIも道具としてしっかり位置づけること。
そのうえで、人間の領域までは明け渡さないこと。
ITやAIつかった方がいい場合と
反対に
それが過剰に使かわれ、依存が起きないように
人間が、
ITやAIを管理コントロールすること。
もしITもAIもが過剰に走りだした時。
すなわち、科学者の狂気や技術者の狂気が暴走しないように。
もしかしたら、そういうことも起こりうるかもしれないが、
しかしそこからでも、人間が
人間が人間たるとは、どういうことであるかを
考えなおし、
人の世を作り直していくのも人間であると
私は希望する。
そのためにも、私は残りの時間を
人間への愛をこめたものを創っておこうと考えている。
ほんとうに、ささやかな贈り物ですが。
ね。


同志と書いてしまいましたが、
長文で読みづらいこのブログを読んでくださっていることには
感謝満載です。
ほんとうは鴨長明のごとく、普段は山の中に隠棲して
下界を眺め、下界で何かが起きたときには、
山から下りてきて見て調べるといきたいのですが、
しかし私は下界のまっただ中に生きている。
そして時代は洪水のように情報が押し寄せて来る中で
本来は軍の道具であったインターネットが、
今は世界を創りつつあること。
コンピューターも道具でありながら、
そこから生まれるAIが、
もしかしたら世界を呑みこんでいくかもしれない。
そういう予兆を感じなくもないのが、
現代のSNSやツイッターの類です。
ITやAIの世界で、いとも簡単に、
情報が錯綜し、
世界のリーダーをはじめとする人間がうかうかと
ツイッターをやっている。
トランプの軽薄なツイッターが流れ、
それに世界がこれまたうかうかと反応する。
本来人間がいきてゆくには
広範で複雑なことを視野に入れながら、
言葉を吐く、行動するということが重要で
それには思慮と<魂胆>が必要です。
<魂胆>とは本来はたくらみというあまり良い風には使われないが
しかし、物事はいったん<キモ>の中に溜めて、
時間の推移の中で濾過してこそ、ようやくそこに本質が顕われてくる。
だからスケールが大きい人間であればあるほど
ものごとをすぐに表現せず、決着せず、キモの中に
溜めて、機が熟するまで寝かしておく。
残念なことに
そういうことができない人間が
世の表面でボウフラのようにうようよして、詭弁が横行し、
さらに世界を作り上げている。
本来人間はそれぞれの人間すべてが違っている世界を
生きているものであるが、
しかしどういう訳か人間は、
自分と他者とが同じであると錯覚の中を生きてしまいます。
例えば林檎が描いてある絵をみても、
その解釈はひとそれぞれが全く違う。
ある人は林檎の色に、反応して綺麗だな~と。
ある人は林檎の形に反応し、丸くて可愛いな~と。
ある人は林檎の味を思い浮かべ、美味しそうだな~と。
ある人は林檎の思いでに反応し、あの時のリンゴ・・・と。
という風に、
それはその人間の脳の内容に、
それぞれが連鎖していくからです。
その反応は千差万別であるにもかかわらず、
私たちは、無意識に、
他人と自分との林檎が同じだと思いこんでしまう。
これが<わかっているつもり>の世界であり、
この<わかったつもり>で生きている人間の方が多勢なのです。
※この<分かったつもり>の正反対というか
人間として熟してくるにつれ、<まだまだ何もしらない>という
謙虚の極みに達するのですが、
困ったことに高学歴の人間ほど<わかっているつもり>の世界に
陥りやすい。
人間の脳の機能がなぜ、こういう風になったかというと
二足歩行になった人間の子供の、
親と密着する成育期間が
20年近くと、あまりにも長いせいなのか、
人間が他者と一緒にいきざるをえないからか、
逆に他者と一緒に生きるために、
脳が仕組んでしまったのかは
わかりませんが、
この無意識の錯覚や、
そこからくる自分の無防備さを認識、理解できない人間ほど
軽々しく自分の魂胆を明かしてしまう。
言葉を吐いてしまいます。
※私はずっとこのブログで、
「言葉はそれが熟するまでは、
しゃべってはいけない」と書いてきた。
こう書きながらイ・チャンドンの映画「オアシス」を思いだす。
この映画にはまさしく、人間の心の中は見えないこと。
見えない故に、
人間は他者や相手を自分流に解釈してしまうこと。
映画の中の<ホン・ジョンドゥ>の心の中も<コンジュ>の心も、
二人の真実も
そのほんとうのことは二人以外には分らない。
そして二人共がその誤解をひきうけたまま生きていきます。
そういう人間の認識の危うさをイ・チャンドンが描いています。
<IT幻想>はまさに、ここのところが抜けている故に
拡大していっている。
自分のことなど他者はわかりえないという時、
では、
自分と他者をも繋ぐために、
自分と他者とが分かり合えるように、
何をどのように工夫し、
厳選し、具体的に
言葉や映像にしていくか、
それを思慮し,熟慮する事こそが、
人間の仕事であると
私は考えている。
ITもAIも道具であることをしっかり認識して
それをどのように使うかを人間は問われています。
人間はITもAIもそれをどのように使うか、
或は
使わないか、を選択しなければならない。
その選択こそ人間が人間たることであり、
自分たちが作り出したものに振りまわされたり、
呑みこまれりしないことです。
実のところ私は次に確実にくるであろう
AI世界を思いながら危惧をしている。
していた・・ともいえる。
その中で一つ見えてきたのは
ITもAIも道具としてしっかり位置づけること。
そのうえで、人間の領域までは明け渡さないこと。
ITやAIつかった方がいい場合と
反対に
それが過剰に使かわれ、依存が起きないように
人間が、
ITやAIを管理コントロールすること。
もしITもAIもが過剰に走りだした時。
すなわち、科学者の狂気や技術者の狂気が暴走しないように。
もしかしたら、そういうことも起こりうるかもしれないが、
しかしそこからでも、人間が
人間が人間たるとは、どういうことであるかを
考えなおし、
人の世を作り直していくのも人間であると
私は希望する。
そのためにも、私は残りの時間を
人間への愛をこめたものを創っておこうと考えている。
ほんとうに、ささやかな贈り物ですが。
ね。


by denshinbashira
| 2018-01-16 07:45
| 私の仕事
|
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