人生から解放される、その3 |
今回の小室哲哉さんの引退会見をみていると
世の中は大変だね。
でもね、もしかしたら小室さんも
これで世間からも人生からも
開放されるかもしれないよ。
世間とは自分以外の人間が引き起こす、
カオスのゴタゴタの世界だからね。
所詮自分と他人とは<違う>ということがわかっていない人間たちが
ごっちゃになって引き起こす、魑魅魍魎の妖怪世界だからね。
そこにどうかかわるか?
或は
かかわらないか?
という線引きをしていないと、
つまり、世間との関係についての心得をもっていないと、
世間は厚かましくドンドン自分の中に介入してくる。
世間とは、まあ、人間たちの欲と不安が排出する、
ごみ箱のようなものです。
無意識の中にある、
欲と欲望の本音が現象化している世界だからね。
個々人の人間は意識でなんとか世間(世の中)と自分を
コントロールしようと頑張るが、たいがいが力尽きる。
だってそこは混沌のゴミ箱なんだから。
小室さんも、そういうゴミ箱からは卒業して
もっとお気楽に生きれたらどうですかね~…笑!
相撲協会をみていると、
協会も、周囲のなんとか審議委員会とか
なんとか評議委員会とかいうのも
み~んな、頭が古くてもうどうしようもない。
ただね、こういう爺さんバアサンの頭は、
よほど常に頭を柔らかくトレーニングしていない限り
おそらく30年くらい前の時代感覚で硬直しているはずだから
ほんとうは、人身を一掃するしかない。
彼らの頭の中は、既存の組織を温存するほうに脳がシフトしているから、
若者からみたら、みんなアホに見えるでしょうに。
人間の脳はどうしても偏って硬直する。
つかっていない部位は退行する。
よほど頭がいいか、柔らかいひとでないと
ほとんどの人はそうなる。
よほど頭のいい人というのは、
常に自己否定ができる人で、
その自己否定の先に光を見ている人で
光をみているからこそ、自己否定ができる。
自己否定をやりつくした後には
いかにも透明で聡明な自分が現れてくる。
そういうことを熟知していたのが
親鸞です。
だから親鸞は、ひたすら自分を捨てて
念仏を唱えよと言ったのですね。
念仏を唱えて光=阿弥陀様にすがれと
言った。
自我=頭の中を去来するアレコレで、なんとかしようと
思うな、とね。
自分を捨てて無心に祈れとね。
このことはまさに脳の道理にあっていて、
自己否定、すなわち自分の中の不要物をどんどん捨てることが
翻って、自分が自由自在になり、世の中が見えてくる。
世の中のゴミが見えてくるといったらわかりやすいかな!
世の中のゴミとは、
欲と欲望とそれが裏返った不安が作り出すゴミで、
そこには、妄想と幻想による執着とこだわりが付着した<物>が
氾濫する。
現代の消費社会はそういうゴミ箱を
後生大事に抱えている社会で、もうきりがない。
もしかしたら、そういうゴミだらけに囲まれて、
ごみ屋敷になって
それでもまだゴミを手放せない人がわんさかいるかも知れないね。
まあ相撲協会の、あの評議員会の議長のバアサンが
顔につけているのも、ほとんどがゴミだろう・・・・苦笑!
ゴミに埋もれてしまうと=物に依存してしまうと、
心の中はどんどん空疎な虚無だらけになる。
欲望がどんどん拡大してゆく。
世の中は欲望と不安が排出するゴミだらけだが、
その中でほんとうに創造的なものだけが
つまりほんとうに人間に必要なものは、
残っていく。
なぜ残るかというと
それは、まことにまことに純化したものだからです。
人間の生きる上での合理性が素直に素直に純化したものは
残って、次へとバトンされていく。
どんな人間の出発点には、そういう純化の感覚や感性があり、
垢や灰汁を濾過する機能が
人間にはあったはずなんですけど、
それが世間の欲望の洗礼を浴び、人間社会の毒のなかで
どんどん鈍くなっていくのかもしれないね。
もともとあった感覚や感性がにぶくなる。
ただね、
そんなゴミのような世間(世の中)でも
自分の●純粋な(無心な)感覚や感性で、しっかり
世の中を見据え、見極め、そしてそれなりの関係を創っていくと
時にそのゴミの中からさえ、キラキラする宝石が見つかることがある。
それは、そういうゴミやゴミ箱さえも、底の方には純粋なものが
潜んでいる。
群れから離れ、遠くからでいいから、
愛情をもってゴミとゴミ箱を眺め、見守る中に、
うっすら、見えてくるものなんだね。
●「MIZUTAMA」
記事を更新しました。
私がドストエフスキーの小説の中にでてくる
女達のことをかきました。是非読んでくださいな!
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