人生から解放される、その5 |
私を癒してくれるのかというと
ドボルザークの音楽には
バッハのように荘厳で厳粛な高い精神性でもなく、
ベートーベンの曲にあるような
大げさな権威もないし
ブラームスのように優しいのだけれど
甘い陶酔が時にしつこいのでもないし、
シューマンのような気鋭もそんなに見られない。
遠くアメリカまで出稼ぎにいったドボルザークに見えていたのは、
故郷チェコの野山や川の風景や、
その空にながれている雲や風や、
耕やかされた土の匂いであり、
その下で暮らす自分の家族や人々の
彼が愛した、そんなささやかな光景が見えてくる。
夜中に放映されている「ゴットタン」という番組があるが、
えげつなく、下品極まりない。
教養ある婦人がみるもいやらしいクソ番組なのだが面白い。
司会をするのは<おぎやはぎ>と<劇団ひとり>であるが
<おぎやはぎ>は例によって腹黒くいつも傍観者の位置にいて
一番えげつない役を引き受けているのが<劇団ひとり>である。
※断っておきますが、私は腹黒い矢作が大好きなのです。
<劇団ひとり>というネーミングは雑妙で
劇の団、つまり演じる人間の集団、で、ありながらひとりでもある。
その劇団ひとりが、時々ゲストの<キングコング>の西野と
ガチのバトルをする。
お互いの罵倒からはじまり、取っ組み合い、さらに
相手の着衣をボロボロに破り、
最後にはケツまでをさらしてしまうのですが。
西野君は、芸人でありながら、
いつも世間の上澄み液を上手にすくって、絵や本にして、
文化人気取りをやっている輩で、
その対極に<劇団ひとり>はいる。
<劇団ひとり>も本を書いたり、映画を創ったりしているのだが、
彼は決して、文化人である自分を見せることも、ひけらかすこともない。
自分の作品にも、素知らぬ顔で、素気ない。
が。
私の眼には、
西野君と<劇団ひとり>が裏腹の同一人間のように
見えるのです・・・笑!
<劇団ひとり>は西野をコテンパにやっつけた後に
彼に愁眉をおくるのです。
私の眼には、時々ひとりの顔にヒトラーの顔が重なってしまう。
コイツ世界制覇を企んでいるな~・・と…笑!!
だからといって私は<劇団ひとり>のことも、
大好きなのです。
世の中とは幻想で、
私たちは、ひとりひとりが、自分のカプセルの中の
<幻視の世界>をみているのかもしれない。
私の幻視の中に、
ドボルザークの音の世界も
そしてえげつない「ゴットタン」の世界もある。
そして高次な深い内容であるけれども、
そこに漂う男のナルシズムが胡散臭い、
という世界もある。
だからといって私が女性を見る目が甘いかというと、
そうではありませんよ。
男性をみるより手厳しいです。
特に軽薄なインテリ女性には厳しいかもしれません・・・笑!
ただ<人生から解放される>と銘打つときに思うのは
私がお婆さんであること。
以前読んだ本で、
東大の地球物理学の松井先生が
地球の生物圏の中で、人類だけが人類圏を特化し、
そこに文明をもたらしたのは、
人類にはお婆さんという、生きものの存在が
大きいかもしれない云々のことを
書いておられました。
※松井教授の東大駒場講義録 集英社新書
お婆さんとは、生殖期間がすぎても生き伸びているメスのことで、
つまり男女の性から解放された人間です。
さらに私は、男女の<性幻想>も捨てましたから、
見えてくるのは、
男も女もない
ひたすらに生きる<人間>という生物の裸々の姿です。
しかしそれも幻視なのかもしれないね。
幕府軍をコテンパにやっつけた大村益次郎は
従う部下に常に梯子をもたせて、
木に登ったり、屋根に上ったりして戦況を俯瞰して見渡しては
作戦をたてたらしい。
見渡す。
もしかしたら<劇団ひとり>も芸人の世界を見渡して
策を練っているのかもしれない・・・笑!・・・クソがっ!
そしてドボルザークの頭は、
遥か故郷を見渡して、曲を構想したかもしれない。
人間を見渡す、世界を見渡す。
幻想もリアリティも見渡し、
下品も上品も、人間社会もおきることを見渡し、
バカがはびこる世間を見渡し、
たけしのように
しょうがねぇなぁ・・・と、ね。
見渡して、見渡しての後
自分の仕事をし終えたら、
後はヨロシク、と
人生から解放されるかッ・・・!!!
お、わ、り。
記事を更新しました。
●ロシア料理のロゴスキーさんのグラビア記事と。
私が書いた
●「ドストエフスキーの小説の中にでてくる女たち」
是非読んでくださいな! 無料です。