2018年 01月 30日
古い頭、新しい頭・・?その2 |
頭はどのように働くのだろう?
頭が新しい人とは
どういうことなんだろうね~?
頭が古いってのは、
相撲協会や政治家を見れば分かるけど・・・。
では
新しいとはどういういことかというと
つい最近ips細胞の研究者が不正をしましたね。
ips細胞の研究という科学の最先端の人の、その頭が新しいかというと、
そうではなく、頭が固くて古いから不正をしたのであり。
現代の最先端科学でもないらしい!
ただ、何となく見えてくるのは、
頭が古いとは、
今までの範囲内でしか、ものが見えず、考えることができない。
ということでしょうか。
時代の先端を切り開いてゆく人達は、
時代の矛盾やねじれや歪みに
正直に反応できているからこそ、
その矛盾やねじれや歪みを、どう超えるかという過程で
なにか、見えて来るらしい。
そこには、本来の正当な自分というものがあって、
それと照らし合わせながら、
さらに自分の感覚入力が研ぎ澄まされていることが
必要なようで。
少なくとも、感覚を鈍くさせたり、錆びていたりしたら、
気づきもしないだろうから。
「花神」を読みながら、幕末から明治への時代を俯瞰してみると、
社会がまさに<生きもの>であり、
<いきもの>としての現象が社会であると分かる。
<生きもの>としての社会は常に動き廻りながら、
時に進み、時に後退しながら、らせん状に変化をしている。
その時、社会現象の最初に起きるはやり現象(流行)は、
まるでウイルスに冒されたように大衆の中で
膨張、拡大してゆく。
だから、
ウイルスに冒された幻想が興奮を呼ぶ中
実際に、実質的に、社会をどう運転するかの技術(方法)を
持っていないと、
とんでもないことになる。
そういうウイルスに冒されず、
自分を維持してゆくのは、
自分の感性の感覚入力が、自分の実感に伴っているか、
或は思考が硬直していないか、
いつも同じパターンで、考えていないかの
自己省察が重要なように思います。
そしてもうひとつ新しい頭の条件として、
脳のひらめきを、自分が受けとめるかだと私は思う。
脳はいつも一回性であり、だからこそ常に新しいんだね。
脳のひらめき=新しいことにすぐついてゆける人間と
すぐに、それを疑い否定する人間。
それをすぐ否定したり、疑う人間の頭は、
あたらしくなれないと思う。
それは
自分のヒラメキに対して、慎重だからということとは違う。
ひらめき(閃き)というのは、
一瞬の脳の連鎖が結節して電流が走ることであり、
閃いた後にその事を検証する、考察という思考の範疇へと
閃きが移行するのであり、
まずは、そのヒラメキをそのまま受け入れるということが大事だと
私は考えている。
しかし、古い頭の人は、そのヒラメキすら疑い、否定するからこそ
そこから先の思考過程へとは進まない。
つまり感覚も思考もどんどん鈍くなるのだ。
先へ進めないからこそ、従来の感覚と思考中で
堂々巡りばかりをして、
今までの自分から脱せないのだと
私は、思う。
私は自分のヒラメキをまず、無心に喜ぶ。
喜ぶからこそ、そこからもまた脳の連鎖が始まり
インパルスが脳の中を駆け巡り、さらに
閃いてゆく!!
社会が変化する時、
その先駆けとして起きる、
流行現象という熱病やインフルエンザに冒されないためにも
先入観や思い込みを極力退けて、
頭の中の感覚入力の感度を良くしておく。
「花神」の主人公大村益次郎も、そういう意味では
単純に社会現象で発熱しない。
彼は社会の発熱現象を傍で見ながら、
もっと実際的で、合理的な方法へと
めを向けていきます。
社会が進展していくのは、
社会の矛盾や切れ目から
理想が見えてくることで、
そしてその次にくるのが、理想を巡る感情の発熱で、
その発熱が一通り燃えつくして冷めた時、
現実が姿を現す。
そしてその現実を制していくのは
物や技術(方法)だと私は思うのです。
おそらく益次郎も
最後は物や技術だと、彼は理解していたのではないだろうか。
まだまだ「花神」の続きを読みながら、
最後の物と技術(方法)とはなにか?
それを現代に当てはめるとナンなのか?
難しいな~。
私も読みながら、書きながら、
考えています・・・。
むずかしいな~。

noteウエブマガジン「MIZUTAMA」を更新しました。
私が書いた「自分の物語」です。
いつもこのブログを読んで下さっている方は、
もうよくご存じのことだと思いますが、
生きてゆく勇気や,前へ進むためのアイディは、自分のというプログラムの
地の底から湧いてくることを書きました。
どうぞご覧ください。

頭が新しい人とは
どういうことなんだろうね~?
頭が古いってのは、
相撲協会や政治家を見れば分かるけど・・・。
では
新しいとはどういういことかというと
つい最近ips細胞の研究者が不正をしましたね。
ips細胞の研究という科学の最先端の人の、その頭が新しいかというと、
そうではなく、頭が固くて古いから不正をしたのであり。
現代の最先端科学でもないらしい!
ただ、何となく見えてくるのは、
頭が古いとは、
今までの範囲内でしか、ものが見えず、考えることができない。
ということでしょうか。
時代の先端を切り開いてゆく人達は、
時代の矛盾やねじれや歪みに
正直に反応できているからこそ、
その矛盾やねじれや歪みを、どう超えるかという過程で
なにか、見えて来るらしい。
そこには、本来の正当な自分というものがあって、
それと照らし合わせながら、
さらに自分の感覚入力が研ぎ澄まされていることが
必要なようで。
少なくとも、感覚を鈍くさせたり、錆びていたりしたら、
気づきもしないだろうから。
「花神」を読みながら、幕末から明治への時代を俯瞰してみると、
社会がまさに<生きもの>であり、
<いきもの>としての現象が社会であると分かる。
<生きもの>としての社会は常に動き廻りながら、
時に進み、時に後退しながら、らせん状に変化をしている。
その時、社会現象の最初に起きるはやり現象(流行)は、
まるでウイルスに冒されたように大衆の中で
膨張、拡大してゆく。
だから、
ウイルスに冒された幻想が興奮を呼ぶ中
実際に、実質的に、社会をどう運転するかの技術(方法)を
持っていないと、
とんでもないことになる。
そういうウイルスに冒されず、
自分を維持してゆくのは、
自分の感性の感覚入力が、自分の実感に伴っているか、
或は思考が硬直していないか、
いつも同じパターンで、考えていないかの
自己省察が重要なように思います。
そしてもうひとつ新しい頭の条件として、
脳のひらめきを、自分が受けとめるかだと私は思う。
脳はいつも一回性であり、だからこそ常に新しいんだね。
脳のひらめき=新しいことにすぐついてゆける人間と
すぐに、それを疑い否定する人間。
それをすぐ否定したり、疑う人間の頭は、
あたらしくなれないと思う。
それは
自分のヒラメキに対して、慎重だからということとは違う。
ひらめき(閃き)というのは、
一瞬の脳の連鎖が結節して電流が走ることであり、
閃いた後にその事を検証する、考察という思考の範疇へと
閃きが移行するのであり、
まずは、そのヒラメキをそのまま受け入れるということが大事だと
私は考えている。
しかし、古い頭の人は、そのヒラメキすら疑い、否定するからこそ
そこから先の思考過程へとは進まない。
つまり感覚も思考もどんどん鈍くなるのだ。
先へ進めないからこそ、従来の感覚と思考中で
堂々巡りばかりをして、
今までの自分から脱せないのだと
私は、思う。
私は自分のヒラメキをまず、無心に喜ぶ。
喜ぶからこそ、そこからもまた脳の連鎖が始まり
インパルスが脳の中を駆け巡り、さらに
閃いてゆく!!
社会が変化する時、
その先駆けとして起きる、
流行現象という熱病やインフルエンザに冒されないためにも
先入観や思い込みを極力退けて、
頭の中の感覚入力の感度を良くしておく。
「花神」の主人公大村益次郎も、そういう意味では
単純に社会現象で発熱しない。
彼は社会の発熱現象を傍で見ながら、
もっと実際的で、合理的な方法へと
めを向けていきます。
社会が進展していくのは、
社会の矛盾や切れ目から
理想が見えてくることで、
そしてその次にくるのが、理想を巡る感情の発熱で、
その発熱が一通り燃えつくして冷めた時、
現実が姿を現す。
そしてその現実を制していくのは
物や技術(方法)だと私は思うのです。
おそらく益次郎も
最後は物や技術だと、彼は理解していたのではないだろうか。
まだまだ「花神」の続きを読みながら、
最後の物と技術(方法)とはなにか?
それを現代に当てはめるとナンなのか?
難しいな~。
私も読みながら、書きながら、
考えています・・・。
むずかしいな~。

noteウエブマガジン「MIZUTAMA」を更新しました。
私が書いた「自分の物語」です。
いつもこのブログを読んで下さっている方は、
もうよくご存じのことだと思いますが、
生きてゆく勇気や,前へ進むためのアイディは、自分のというプログラムの
地の底から湧いてくることを書きました。
どうぞご覧ください。

by denshinbashira
| 2018-01-30 16:01
| 脳は空より広いか
|
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