古い頭、新しい頭・・?その7 最終回。 |
それは古い武士の意識です。
暗殺者たちをそそのかし、たきつけたのは
西郷の取り巻きでもあった海江田信義です。
いつも益次郎と対立します。
彼は益次郎のことを理解できないのです。
彼は益次郎が<使命感>だけで生きていることを
理解できない。
彼が囚われているのは、
自分のメンツすなわちプライドです。
その空洞の中身を蔽い支えているのが
彼の中に刷り込まれている古い武士の階級意識です。
もうその身分制度を打ち破り、
新しい時代が来ているというのに
彼の中身は、古い武士意識のままなのです。
百姓あがりで、風采もあがらない、
いまだに粗末な着物のままで、社交性もなく、
何を考えているかわからない。
その益次郎を、最初から見下し、対抗意識をたぎらせて
悉くその作戦に後ろ向きなケチをつけ、
彼にブレーキを掛けようとします。
さすが、西郷や大久保は益次郎の高い能力と才能がみえていますから、
最終的には西郷が「大村ドンにまかせよう」と締めますが、
海江田はそれが気に入らない。
軍略会議の席で、
あまりに執拗に自分の戦術を否定してくる海江田に
益次郎はたまりかねて、
「あなたはいくさをしらない」と言ってしまいます。
まあ、海江田にしてみば、本当の事を指摘され、
とどめをさされたようなのです。
ただ衆目の前で面目を潰された海江田のその恨みが、
始終益次郎に対する殺意を生んでしまいました。
実は軍師であり、作戦をたて、軍を指揮していながら、
益次郎は、剣術もしらず、馬にさえ乗れないのです。
だってもとは百姓であり医者ですから。
そういう人間に戦をしらないと言われたら、もう
武士の面目丸つぶれです。
自分が卑下している百姓の出で、
自分が小ばかにしている人間が自分より優れているのを
絶対受け入れらない。
海江田の自我のシャドウがどんどん膨張していきます。
海江田はもともと西郷の取り巻きであり、
西郷を幻想化している人間であり、
西郷を幻想化すると同時に、自分までを幻想化して
まるで西郷のレベルに自分もいるかのような錯覚をする。
つまり、虎の威を借る狐です。
取り巻きとは、そういう人間たちです。
そして自分の取り巻きをつくる、
或は許すという人間も
大いに問題アリの人間です。
そういう意味で、私は西郷に対しては
その評価に少し疑問をもっています。
西郷は器の大きなカオスの人間ではあるが、
しかし頭の中が明瞭に整理できていたのか、というと
そうではないように思えるのです。
どこかで感情と理念がどんぶり勘定になっているような。
しかし西郷は益次郎の価値をなんとはなく嗅いでいたと思います。
だからこそ、最後は大村ドンにまかせようと言ったのです。
これほどに頭が明瞭な益次郎から見ると、西郷は
大きな器であっても、無能のように見えたかもしれません。
とかく人格者とか仁の人と言われるひとは、
周囲から幻想化されてオールマイティのように勘違いされますが、
たいがい無能です。
以前、かなりの昔の話ですが、
私の身近にいる例の帽子がはいらない頭のおおきな人が、
某氏は人望があって周囲から慕われているが
自分には無能にしか見えない・・といっていたのを
おもいだしました・・・苦笑!
その人ももう鬼籍に入られましたが。
古い頭、ふるい意識って何でしょうかね~。
それは<守りにはいった自我>が、新しいことに対する
アンテナの感覚を封鎖してしまったことだと思います。
<守りにはいる>ということは、無意識が自分の能力に
見切りをつけてしまうことです。
※本人は気づいていませんが、
無意識領域では、そういうあきらめが起きています。
無意識が、外圧と自分との葛藤の中で
自分の可能性に見切りをつけ、
そこから今度は、
今の自分の<現状維持>を守ろうとすることです。
現状維持ですから、当然、
新しいことや、前向きなことに対する
アンテナを閉じてしまい、
過去ばかりを郷愁していきます。
海江田も過去の武士意識や階級制にしがみついてしまいました。
益次郎が言っているように、古い常識的な観念しかないのに、
その愚論で益次郎を封じようとします。
海江田は薩摩からの参謀として処せられているのですが、
ここらあたりに薩摩の限界を感じます。
その薩摩の限界を西郷は知っていますが、
海江田を押さえることができません。
ここにも西郷の限界があります。
しかし益次郎は、過去の時代を
全否定する、そういう大手術をしなければ、
新しい世の中が来ないことを知っています。
そこに薩摩の閣僚や、海江田などとの
大きな<能力>のひらきがうまれました。
一方は、
新しい知識や新しい感覚と感性をどんどん獲得しては
道を切り拓いていきますが、
もう一方は、
もう化石化した観念を捨てられず、
自己保身の感情にばかりしがみつき、
脳が膠着しています。
海江田は最終的には大久保の配慮によって、
中心から外され、関西へと追いやられてしまいます。
まあ、海江田にしてみれば、益次郎には恨み骨髄でしょう。
古い意識とは、現状を維持し、
かたくなにそれを守ろうとする意識です。
それは無意識に自分の可能性を諦めた意識です。
しかし困ったことに、諦めきれない自分もそこにいるのです。
諦めきれない人間は、
なんの根拠にないのに、
自分を無意識に高い位置に設定して
傲慢になります。無意識のうちに上から目線でみてしまいます。
更に諦めきれない自我が
自意識をせり出していきます。
諦めているにもかかわらず、
ほんとうは負けたくないのです。
※これはほんとに中途半端にいきているからだと思いますが。
そして最後は嫉妬に燃えて・・・シャドウに乗っ取られていきます。
どうでしょうか。
古いということは、いつ、どのような場合においても
時代に関わらず、
守りに入った頭が、膠着状態になり、身動きできなくなり、
その苦しさに自我があがき、
自分に執着するあまり
他者を否定しつくしたくなる感情です。
否定せずにはいられない感情に乗っ取られます。
益次郎の素晴らしいところは、
※きっと本人はそれほどでもないと思っていたでしょうが、
蘭学を糸口に、西欧の知識や文化に触れながら、
これまでの封建的身分制度の時代から
新しい<自由の世界>をめざして、
自分も何かを切り拓こうという<使命感や、使命意識>が
あったのではないでしょうか。
だからこそ、彼は一直線にそれに向かって走ります。
よけいなものにはわき目もふらずに、です。
彼は富や虚栄などにはまったく関心をしめさず、
自分が獲得した知識を、
いかにリアリストとして貢献するかにばかり
神経とエネルギーを使いました。
その根源にあるものは、
益次郎のナショナリズムという風に、司馬さんは
書いています。
そのナショナリズムとは狭い国粋主義的なものではなく、
自分の故郷の山や川を愛すような感性であると書いています。
幕末にはもう様々な西洋文化が入ってきます。
その中で洋服や靴を履く人間もでてきます。
竜馬だってブーツを履いていたでしょう。
薩長の閣僚の中にも洋服を着る人がかなりいたらしいですけど、
益次郎は死ぬまで、和服でした。
伏見でも江戸でも指揮をとるときは紋付き袴で、
軍隊を閲兵する時も紋付き袴でね…笑
益次郎は西洋列強の怖さを知りつくしていました。
当時の実情は、
西洋列強との条約においては、
日本は半分植民地化されたていた状態です。
その日本を西洋列強から守りたいと思っていたのその意志が、
官軍には服を着せても、
自分の服は<心の攘夷>として
和服を着続けたたのではないかと
思います。
なのに、
海江田は、益次郎のことを、
西洋文明に引き入れて
日本を海外に売ろうとしている凶悪な陰謀家として
いまだに憤懣の中で鬱積している国粋的な頭の悪い拝をたきつけ、
自分では手を汚さず、
益次郎を殺してしまいました。
何時の時代も、どんな時代も
古い頭とは
コンプレックスに冒され、
自分を守りに封印した自我が
裏返って自分をせり出し、傲慢をかさにかけ、
自分にはない能力に嫉妬し、
気に入らない異質なものを排除し、
現状維持という、
それまでの常識から一歩もでない意識と感性と感情です。
それは
私から見ると、自分を粗末にする意識です。
自分を滅ぼしていくしかない感情です。
勿体ないですね~、せっかく生まれてきたのにです。
もう、こういうことから、
梯子を外す時代ではないでしょうか。
もうこういう古い古い自己保身の感情から
脱し、
古臭い人間関係からも脱し、
ネガティヴな感情や思い込みや嫉妬をほおり投げ、
現状を維持し、ことなかれに、陥るのではなく、
新しい人間の関係を創らなければと、私は考えます。
自分を大事にし、
生きることそのものが、躍動的で面白いという風に生きる。
そして
自分という存在に、
なにかしらの、意味や、使命感を、与えることだと思います。
それがなにか、わからないくてもいいのです。
ただ生きているだけでもいいのです。
でもいつも前を向いて、生きる。
自己保身や自己防衛の守りに入り、
自慰的に自分をいじくらない。
使命感を感じるというと大げさですが、
自分が愛する者や愛する事のことに、
ささやかながら役に立とうという使命です。
人間は関係の中でいきています。
その関係が良きものになるために
自分も相手も、双方が良きことになるように
自分を役立てていくということではないでしょうかね~。
物やお金や名誉や地位などでは
とうてい幸福は手に入らないということを
もう、みんな分かってきたでしょ。
自分が関心を持つこと、興味が湧くことに、
エネルギーが湧いてきます。
そこに幸福の種や鍵が落ちていると思います。
益次郎の大きな海に比べたら、
私なんぞは海辺の砂よりも小さい小さい志ですが、
私が学んだこと、私が体験し経験してきたこと、そして
考えたことが少しでも皆さんの役にたてたらと
このブログを書いています。
純粋に自分のことを思い
純粋に人のことを思うことです。
さて今回は
益次郎は何に殺されたかというと
それは古く膠着した感情に殺されました。
司馬さんはそれを<土着的>な意識と感情だと書いています。
<土着的>とはなにか、
それは古い、動物的な原初的な、感情であり、
理性に洗われていない感情です。
無明の世界、つまり、
整理されていない、
怖れや、不安や、怯えが怒りに反転して
作り出す感情が、
理性に濾過されずにドロドロと渦巻いている世界から
抜け出すことこそ、
新しいのではないでしょうか。
それこそが、
人間のこれからの課題ではないかと
私は考えます。
村田蔵六こと大村益次郎には
不思議なほどに
闘争心がなかったように、
私は思います。
闘争心があると、
戦うことに気を取られてしまいます。
しかし彼は戦いのゲーム版を上から俯瞰し
そのエネルギー現象を、新しい世を拓くために
マッチで火をつけていきました。
彼がデーターを収集し、計算をしつくした世界は
思いつきだけで発熱するせかいと比べようがないほど
知性に満ちています。
彼の命がひたすら知へと向いて、
最も目的化されたものだけを
知の中で、透過して、
あらわしていいく。
それが益次郎の生き方だったように思います。
益次郎は殺されましたが、
その最後を看取ったのは、
彼の愛弟子である、シーボルトの娘、イネでした。
イネだけは、益次郎の心の真っすぐな先にある
純粋でキラキラ輝く才能に気づいていたかもしれません。
古い頭と新しい頭、
これで
終わりにします。
長い文を読んでくださり、
ありがとうございました。
私が書いた「自分の物語」です。
いつもこのブログを読んで下さっている方は、
もうよくご存じのことだと思いますが、
生きてゆく勇気や,前へ進むためのアイディは、自分のというプログラムの
地の底から湧いてくることを書きました。
どうぞご覧ください。