「銀河鉄道の夜」保阪嘉内と宮沢賢治 その6、賢治は他者のこころがわからない! |
嘉内の除名の掲示がが出た時、すぐ
頭にもしこれらが自分だったらという連想が浮かび
さらに親の顔がうかびませんか?
賢治だって彼が一番恐れている父親の顔が
浮かんだでしょう。
それは河本君だって小菅君だって、
もし自分が除名になれば・・・と
すぐに親の悲しむ顔が浮かぶと思います。
●人間の無意識はその人間の切実なことに
反応し連鎖していきます。
皆さんも掲示板に掲示されている
嘉内除名の記事を読んでいる自分を
想像してごらんなさい!
そういう時人間はどんな反応をするかというと
すぐ
我が身のことを考えるのです。
だからこそ
賢治はとっさにこの事件が
拡大するとマズイと思い
逆に嘉内に因果をふくめさせて
収束をはかったのだと
思います。
賢治の手紙には
嘉内がどれほどのショックをうけるか
嘉内の両親がどれほどの打撃をうけるか
さらに
嘉内自身の将来のためにも
これは大変な汚点となり
そういうことが嘉内の心を
襲い
大変なことになる・・・とは
思わなかったのですね。
さらに嘉内の心を思い
友人として
なにかできることはないか。
嘉内が復学するために
なにか手を尽くすことはないか
などなど
懸命に嘉内のために
力を貸そうとするのが
親友です。
それをこともあろうに
「けれども私はあまり御気の毒にも思へません。
あながち私が他人だと思つてばかりでもない様です。
実はそれが曾て私の願つた道であつたからです。」
とか
「 学校はあまり御恨みにならんで下さい。
只私共自身がやがて学校を造るときまで
どんな処置をも非難致しますまい。」
とか
良く言えたものだと思います。
ただ「アゼリア1号」に書いた賢治作品
「旅人のはなしから」などを読むと
どうも当時の賢治の作品は
自己完結気味です。
自己完結とは
●自分だけがわかっている状態で
自分の思いだけで作品をかいており
かなり客観性に欠けるのです。
だから読んでいる人は
何を書いているのかわからない・・というふうに
思ってしまうのです。
もしかしたら
賢治は脳システムは
客観性が弱いかもしれませんが
でも
嘉内の除名にはかなり感情的に反応しています。
感情的に反応しているからこそ
先手をうって囲い込もうとしている。
さて
賢治から自分の除名を知らされた嘉内は
びっくりして
急いで盛岡に帰ります。
そして処分を撤回してもらおうと
教師一人一人を訪ねて廻ります。
さらに嘉内の父親は嘆願書を
全教師に送りますが
返事が返ってきたのは
たった一通であり
それも役に立てないという
内容でした。
このことは
おそらく
嘉内の心のトラウマになり
その後の人生においても
何等かの形で
翳をさしていったと思います。
しかしそう思えば思うほど
嘉内は偉かったです。
本当はアザリアの同人たちも
言葉こそ違え
似たり寄ったりのことを書いていますし
賢治だって「大礼服の例外的効果」という
作品ではかなり過激なことを書いています。
なのに嘉内だけが
見せしめのいけにえになりました。
それを他人のせいにせず
自分の個人のことに納めて
責任をとりました。
なんで俺だけがと
嘉内が被害者意識に陥ったらもう
そこには恨み地獄しかありませんから。
嘉内は一人で引き受けました。
私はそこに
当時の嘉内の高次の知性と理性があり
それは残念ながら
賢治にはおよびもつかないものでした。
賢治に比べ河本義行は
嘉内が学校を去ったあとの手紙で
「Kよ、毎度お便りをいただいてありがとう。
盛岡も、もう花は末になった。
花の盛りに一度便りをしようと思ったんだが、
なんだか俺には今年の花は美しくなかったような
気がする。
K君、君の去った盛岡はひっそりしたものだ。
殊に俺には淋しい。悲痛だ。
誰一人だって話相手がいないよ。
ひとりだっていないよ。」
と書いています。
ここには嘉内が去ったあとで
自分の無力に
うなだれている河本義行の嘆きがあるような
気がします。
正直です。
一方賢治は
嘉内が盛岡を去るにつけ
思い出の大沢温泉に彼を誘い
そこで最後の夜をともにします。
しかし
賢治はまだまだ
自分がしたことには気づきません。
だからこそ
今度は嘉内の母親が亡くなった時にも
とんでもない手紙を
嘉内に送ります。
嘉内が除名処分を受けて
から三カ月後の
6月18日に
嘉内のお母さんが急性肺炎で
亡くなります。
嘉内の母親も嘉内の除名で
傷つき、そして
息子を思い
息子の将来をも思い
その心労は
大変だったと
思います。
嘉内の心中を思うと・・・・。
しかし賢治は
その二日後には
以下の手紙を嘉内に送ります。
取り合えず
全文を掲載しますので
読んでみてください。
[(1918年6月20日前後)保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)
保阪さん、久しく御無沙汰致しました
河本さんと一処の御手紙又御郷里からの御便り難有存じます
今河本さんから聞けば今度あなたの帰省なさったのは
御母さんの御亡くなりになった為だとのことですが本統ですか
何かの間違らしくしか思はれませんが本統ですか
本統と仮定して今御悔みなどを云ふ気には私はなれません。
私の母は私を二十のときに持ちました。
何から何までどこの母な人よりもよく私を育てゝ呉れました。
私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく
中風の祖母を三年も世話して呉れ又
同じ病気の祖父をも面倒して呉れました。
そして居て自分は肺を痛めて居るのです
私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣りがさせたいと
永い間思つてゐました
けれども又私はかた意地な子供ですから
何にでも逆らってばかり居ます
この母に私は何を酬へたらいのでせうか。
それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。
私の家には一つの信仰が満ちてゐます
私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。
勿体のない申し分ながらこの様な信仰は
みんなの中に居る間だけです。
早く自らの出難の道を明らめ、
人をも導き自ら神力をも具へ人をも法楽に入らしめる。
それより外に私には私の母に対する道がありません。
それですから不孝の事ですが私は妻を貰って
母を安心させ又母の劬労を軽くすると云ふ事を致しません。
私は今一つの務を果す為に
実に実に陰気なびくびくものの日を送つてゐます。
私は今学校の関さんの実験室に入って郡の土壌の分析をしてゐます。それは実にひどい失敗ばかりして居ます。天秤の皿に強硫酸をつけたり、瓦斯を止めずに帰ったり塩化アムモニアを炭酸アムモニアの代りに瓶へ入れて置いたり、私の様なぼんやりはとても定量分析などの様な精密な仕事をする資格がありません。それでも今止める訳にはどうしても行きません。五六十の土壌はどうしても今年中に分析しなければなりません。あゝけれどもこの実験室は盛岡の北の隅にあるのではない。諸仏諸菩薩の道場であります。私にとっては忍辱の道場です。Blunder headよ。放心者よ。おまへは毎日みぢめにも叱られしょんぼりと立ち試薬瓶の列を黙つて見てゐる。けれども動くな動くな。硅素もカリウムもみんな不可思議な光波(その波長の大さは誰も知らない。)の前に明に見られる前にはお前はごつごつと硅酸分離をやらねばならぬ。
今あなたの名は忘れました静岡県の人(内山君ではない)が来て
論文の話などをした中に
あなたの御母様は本統になくなられたのだと云ふことを聞きました。
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
この手紙の五日後にさらに手紙を嘉内に送ります。
1918年6月25日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)
此の度は御母さんをなくされまして
何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか
私は存じません
あなたも今は御訳りにならない
あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は
全く無くおなりになったのか
或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて
御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと
日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は
不可思儀の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば
光となり若し火の中に居られゝば
(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、
或は金色三十二相を備して説法なさるのです。
あなたは御母さんの棺の前で
自分一人の悟りを求めてはいけません。
心は勿論円周でもなければ直線でもないのでせう。
今夜はきっと雑誌を作って御送りします
大正七年六月二十六日 宮沢賢治
保阪嘉内様
更にその二日後にも・・・。
1918年6月27日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)
この手紙はおっかさんに別れたあなたを
慰めやうとして書くのではありません
私の労れた心を励ます為に書くのです
けれども何を書いたらいゝのでせうか
空では巻雲が舒かに走ったり
或は中空と下空と風の方向が違って雲が入りちがひに駆けたり
今は本当に忙がしいときです
地ではあなたが母上を失ふ。
又私は不思議な白雲を感ずる。
私は目をつぶってゐました。睡る前ですから。
白い雲が暸々と私の脳を越えて湧きたちました。
この雲は空にある雲です。
そしてこの雲は私のある悲しい願が目に見えたのでした。
その願はけだものの願であります。
白雲よ。わが心の峡を徂徠する悲みの白雲よ。
わが額に初まつて果知らず遠き空間に去来して
或時は雨となり或時は米を実らさぬ不思議の白雲よ。
あなたの心の中に入って行っては
おっかさんの死をも純に悲しみ得ぬ陰影を往来させる。
私は前の手紙に楷書で南無妙法蓮華経と書き列ねて
あなたに御送り致しました。
あの南の字を書くとき無の字を書くとき
私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。
あの字の一一の中には
私の三千大千世界が過去現在未来に亘つて生きてゐるのです。
けれどもそれは今こつこつと書いて居る
こののの字ももの字も同じことです
のの字ももの字も別のよみ方は南無妙法蓮華経と云ひ
その中に前の様な白雲が去来したり
夜昼が明滅する灯の様にまたゝいたり
おっかさんを失くしたり戦ったりしてゐるのでせう。
あゝ不可思議の文字よ。不可思議の我よ。不可思議絶対の万象よ。
わが成仏の日は山川草木みな成仏する。
山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく
不可思儀ならばそれでよささうなものですが
そうではありません。
実は我は絶対不可思議を超えたものであって
更にその如何なるものと云ふ属性を与へ得ない。
実に一切は絶対であり無我であり、
空であり無常でありませうが
然もその中には数知らぬ流転の衆生を抱含するのです。
流転の中にはみぢめな私の姿をも見ます。
本統はみぢめではない。
食を求めて差し出す乞食の手も
実に不可思儀の妙用であります。
食を求めることはいやしいことか。
宇宙みな食を求るときは之はいやしい尊いを超えたことであります。
おっかさんを失って悄然と試験を受けるあなたにこの様なことを云ってすみません。
保阪さん。諸共に深正に至心に立ち上り、
敬心を以て歓喜を以てかの赤い経巻を手にとり
静にその方便品、寿量品を読み奉ろうではありませんか。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
大正七年六月二十七日 宮沢賢治拝
保阪嘉内様
・・・・・・・
