ふたりのロゼッタ、その2 |
ダルデンヌ兄弟監督もイ・チャンドン監督も
ドストエフスキーも、漱石も龍之介も、
おそらく、
心だけを、
描こうとしたのだと
思います。
そうすると、なぜロゼッタがリケを裏切ったかが
明瞭に理解できていきます。
そうするとなぜ、ドストエフスキーが
マルメラードフを登場させ、描いたかも、
見えてきます。
それには、心というものが、
どんなものであるかを理解しなければならない。
<心>というものが
どういう風に現象化していくかを理解していなければ、ならない。
そしてロッゼタの一つの目は<心>をみている。
もうひとつの目は社会の<リアリズム>を見ている。
さて、Aさんにかかっているダブルバインドとはなにか。
私が一番最初にAさんと会った時、
彼女の子供の頃に描いた絵を見せてもらいました。
そこには、クレヨンで描いた力強いタッチの自画像が描かれており、
おさげ髪で真っ赤な服を着た、エネルギッシュな女の子が
描かれていました。
その生命力あふれる子が、なぜ、
ダブルバインドにかかり、身動きできなくなったのか。
Aさんの話を聞きながら、みえてきたのは、
子供のAさんを取り巻く、大人の環境です。
その環境が次第にAさんの
チャイルド性を奪い、
Aさんは、子供なのに、大人まがいの自分でなければ、
自分を維持できなくなった。
つまり、子供なのに、大人まがいの自分へと背伸びさせねば、
自分の環境のなかで、生きることができなくなったのです。
いわゆるアダルトチャイルドです。
子供なのに、大人の争いに心を痛め、
子供なのに、大人の面倒をみ、
子供なのに、大人をなぐさめ、
子供なのに、大人の愚痴を聞き、
大人の感情の受け皿になり、
子供なのに、大人に変わって判断したり、
子供なのに、子供でいることが、
子供で生きることが
できなくなったのです。
子供なのに・・・・。
子供の自分、無邪気で天真爛漫で、
本当は大人がその純真な心を守ってあげるべき、それが逆転して、
子供の自分を捨てて、諦めて、
醜く争う大人をなんとか支えて、
思春期も、
青春期も、かろうじて生きてきたのに、
Aさん二十歳の時に、もう決定的にAさんが支えてきた大人の世界が
破綻しました。
その大人たちの目は、
自分たちの事ばかりにかまけ、
Aさんがどんなに彼らを気遣い、支え、そしていつも心を
痛めていたかなどは、目に入っていませんでした。
Aさん、つまりアダルトチャイルドのAさんも
力尽きて折れてしまいました。
Aさんの心にかかってしまった二つのバインドつまり足枷、
ひとつは子供でいることができない、子供自分を生きれない足枷、
もう一つは、子供の自分を捨ててアダルトチャイルドになってまで
大人達を支えた足枷です。
にも関わらず、それが無残にも崩壊したこと。
そこに残ったのは、自分(Aさん)の大きな無力感と徒労感と
そして、
大人たちが作り出す社会のリアリズムです。
醜く争い、大人の人間の作りだすエゴが蔓延する社会のリアリズムです。
ロゼッタはそれでも、母親を背負い、果敢に
社会の現実に挑戦していきます。
体じゅうの怒りをハリネズミのように膨らませて武装し、
体当たりで、挑んでいきます。
そこには、リケのように売り上げをちょろまかすというような
小物の悪ではない、
彼女の怒りが焦げ付いた真正面の悪、
深い絶望感が張り付いた、現実へのニヒルな挑戦があります。
説明できない、怒りの塊の、それが彼女を突き動かしていくのです。
しかし、
その最後の挑戦にも力尽きた時、
ロゼッタは、
心に敗北し、
自殺へと走ろうとします。
「自分を密告して、自分の仕事を奪った女(ロゼッタ)に対しも
なお優しい、その間抜けさに腹が立つ」
というAさんは、ロゼッタそのものの苛立ちでもあります。
ただ、Aさんとロゼッタの違いは、それでもまだロゼッタの中には
獣のような怒りの生命力があります。
それが、自殺をする前に、卵を茹でて食べるロゼッタです。
自殺をするために、ガスボンベをえんやこらと運ぶロゼッタです。
そのロゼッタの耳に遠くから、リケのバイクの音がきこえます。
そしてロゼッタは力尽きて、ボンベを落とし、倒れます。
<心だけを描こう>とするダルデンヌ兄弟の映画のロゼッタ。
同じように
<心だけを描きだした>ドストエフスキーの
マルメラードフ。
そのことを次回書きたいと、思います。