ふたりのロゼッタ、その3 |
パズルがとけるように
見えてきます。
<心だけを描こうとした>視点でみると
物語の中(人間社会)では、
人生には敗残尽したマルメラードフは
酒に溺れ、精神の弱さから立ち直れず、
一家を支えるために娼婦となって娘が稼いできたお金すら
飲み代につかってしまう。人間のクズのようなマルメラードフです。
社会不適合者です。
しかし、そのマルメラードフの両脇には
聖女のようなソーニャと、
自意識で脳を病み、狂気寸前のカテリーナが
います。
ドストエフスキーはなぜこういう配置をしたのでしょうか。
そして不思議なことに
ソーニャもカテリーナも、マルメラードフに困り果てながらも
憎んではいない。
ここに神の目線があるように私は思います。
神の目線の神とは、
宗教的な神ではありません。イエス・キリストや、釈迦でも、
マホメットやその他でもありません。
神の目線とは、<命>そのものを悼む目線です。
命の誕生を祝福し、その命の最初から最後までを見届け、それを
祝福する目線です。
その目線は、いかなる<命>に対しても平等であり、
いかなる<命>にも愛と祝福を注ぐ目線です。
今生の人間社会では、どうしようもなく、ダメで落ちこぼれて
敗残していく人間、
そこには,一切の生産性もなく、むしろ他者のほどこし受けながら、
かろうじて生きている人間。
その人間すらすら包み込み、
それでいいよ、という眼差しです。
気が弱く小心なマルメラードフは、
人間社会における適正を欠き
さらにその自我が一切挫かれているために、
どうしても、自己を乗り越えることも、這い上がることもできず、
いつもどぶの底におちてしまいますが、しかし
優しい。
カテリーナのヒステリー攻撃にも耐え、
優しい。
ほんとうに、こういう男が現実にいたら、
周囲の人間はたまったものではない。
しかし、
彼が他者を脅かそうとか、攻撃しようとか、
貶めようとかは、ありえない。
その力すらない。
そのそばでソーニャは聖書にすがりながら、
赦しの中に自分を置こうとし、いっさいを受け入れる。
反対にカテリーナは攻撃を自家中毒させながら、
いっさいを拒否し否定していく、しかし、カテリーナには
エネルギーがある。
その狂気のエネルギーに突き破られて、彼女は死んでしまう。
この構図をヒューマニズム的に、感情的に
よみとってはいけない。
人間社会の俗的な視線でみてはいけない。
この構図を神の目線<心だけがそこある>という目線でみてみると
そこには、人間社会の属性(俗性)の中で
痛みに痛んだ人間の心が三つ並んでいる。
同じように、ロゼッタとリケの心だけを見てみると、
此処にも、
ダブルバインドで、縛り上げられて身動きできないロゼッタと
少しおバカさんだけど、優しいリケの心だけが
並んでいる。
この三つと二つの心にどこか行き場はあるのだろうか。
どこか、彼らが休息と安心を得られる場が
この世にあるのだろうか。
しかし、
少なくともソーニャとカテリーナにはマルメラードフがいる。
そして、ロゼッタには、リケがいて、リケはロゼッタを許してくれるだろうか。
人間の社会は、人間が作り出したものでいっぱいだ。
人間が作り出した価値観で測られ、
人間がつくりだした常識なる観念が横行し、
人間が作り出した力学が大きく作用してしまう。
そしてこの五人は、そこから大きく落ちこぼれている。
彼らは人間社会では、無力であり、役にたたない。
でも、かれらの<命>もそこでひっそりと息吹いている。
ダルデンヌ兄弟監督や、ドストエフスキーが
何を意図し、何を言いたいかは、わからない。
しかし、
<心だけをとりだして>見た時、
私には、この五つの心が愛おしい。
ボロボロに傷ついている心が、
いとおしい。
次回は、ダブルバインドにかかっている
ロゼッタとAさんの心をとりだして
書こうと思います。
