2018年 03月 17日
立花隆氏、養老孟司氏、そして良寛!その2 |
実のところ私は今のデジタル社会に
疲れ切っている。
ただ、それも私が歳をとっていて、
人生そのものにも疲れているからかも
しれないのだが。
とにかく、スピードが早く、
小刻みに刻まれて来る情報や刺激に、
神経が疲れ、
ついていけないのである。
まあ、そういう私の事情もあり、
養老氏が書いておられることに
私は共感する。
先般私はパソコンが故障したのを機に
京都へと旅行しました。
それは私の頭の中を駆け巡る<意識>のスイッチを切るためです。
スイッチを切り、それまでの脳の中で連鎖し、
あれこれと暴走する意識を
いったん遮断し、
頭の中を白紙にもどしたのです。
京都に旅行することで、
自分の日常性をいったんごわさんにし、
逆に京都では、美しいもの、面白いもの、
非日常の知的な刺激をくれるものを
感覚入力し、やっと
私の体と脳との自然なコネクトへと再設定できました。
デジタルな世界とは、
頭の中を行きかう<意識のせかい>ではないかと
私は思っています。
養老氏が言う意識の世界です。
養老氏はその意識の世界がどんどん煮詰まってしまっていると
書いています。
なぜなら、それは
意識が先行し、体の感覚入力がおろさかにされ、
本来なら人間は感覚入力しながら(体験しながら)
外的世界を掴んでいったのに、
現代の人工的世界で、
どんどんコンピューター情報の世界のほうが上位におかれ、
それぞれの個人(自分)が感覚入力して得る情報が
下位に置き去りにされているからだと、
いっておられるのではないかと
思います。
※事実私の周囲にも、自分が人生の中で体験したことや
実感したことを、自分でデイスカウントしてしまい
逆に
コンピューター世界、つまりインターネットで得たものが
あたかも素晴らしいように錯覚している人が
かなりいます。
本来自分が体験したり、経験して、
実感して(感覚入力して)得た世界より、
頭の中で得た知識や意識の方を有力視して生きている。
そういう頭でッ価値の観念的な人間が増えているように
思います。
立花氏の本を読むと、もう文明の進行と技術革新は
とめられようもないように思います。
つまり世界中が、もしかしたら地球中が
人工的世界へと突き進むかもしれません。
立花氏はリアリストですから、
「そんなこと言ったって
だってもう、私たちはまさに、衣食住が人工的に
工業化されたど真ん中でしか、生きれなくなっているでしょ!」
と言われそうですが・・・。
しかし
そうなると、人間はどうなるのかな~と
思うのです。
それに対して養老氏は警告しています。
人工的な世界はまさに人間にとって不自然な世界であり、
しかも都市はどんどんそうなっている。
そして都市こそは意識の世界で造られており、
そこでは<意識にとって意味のないものや価値のないもの>が
ドンドン排除されてしまう。
しかし、人間は本来、
脳(アタマ)と体の<全体性=存在>で生きており、
さらに感覚入力されたものは、漠然としてあるものや
言葉や意識でフレーム化されないものが
無意識の倉庫にたくさんある。
しかしデジタル社会はそういう、
曖昧で漠然としたものを
許さない・・・とは言いすぎかもしれませんが、
排除していきます。
そういうデジタル現象世界を
人間が選んでしまったのです。
なぜなら、それは
『人々が自然に対峙する方法をわすれてしまったことに
根本の原因がある。
なぜ忘れたかというと、
感覚入力を一定に限ってしまい、
意味しか扱わず、
意識の世界に住み着いているからだ』
と、養老さんは書いておられる。
もっと私流に極論すると、
本来アナログであるはずの人間が
ドンドンコンピューター情報世界に意識の価値が一元化され
あたかも、そういう世界が、
アナログ世界より上位にあるかのような
勘違いというか、
強迫観念に
人間が取りこまれてしまった。
・・・・・・
人間が汗をかきながら、鍬で土を耕す。
その土を手で触れながら、土のザラザラ感を確かめ
土から昇ってくる匂いを嗅ぎ
さらに土の中に手をいれると温かい。
それは土の中も生きているからだね。
そこに生きものという不連続の連続性があります。
そういう
人間の体を通して実際に感覚入力されたことと同じことを、
小説で読んだり、さらにインターネットで知っていても、
それは、その人間が体で得たものとは全くのベツモノです。
一方は、
体とその感覚が連動しながら得られたもので、
一方は、
観念の中で把握され、自分の無意識の倉庫にある感覚を
ググりながら、推測、想像された疑似感覚にすぎません。
体の体験的実感と、
観念が想像して得た疑似感覚との
落差を、
人間はどのように克服できるのか。
断っておきますが、
私は今のインターネット社会を否定するつもりはありません。
そうではなく、デジタルなインターネット社会と
アナログ的人間の世界を、どのように折り合いをつけていくか
ということの重大性を思うのです。
養老さんは脳学者ですから、
人間の脳は
<個々に断絶している>ことを熟知しています。
それは岩田慶冶先生の名言どおり、
「人間は断絶を介してしか繋がれない」のです。
しかしそのことは、逆に言うと、
人間は個々に、多様な、その自分世界を生きている、
ということです。
その<個々に多様な自分世界>とは
まさに
人間がそれぞれに、
<自分の感覚入力した世界>を持ち、それに基づいて
生きているからです。
ところが、
<意識>で繋がるデジタルなコンピューター世界
インターネット世界は、
その個々の多様性をドンドン抽象化し、
平板化、或は一般化して
成立しています。
もっと平たくいうと、世界がどんどん
コンピューター世界でフレーム化されていくということです。
多分養老氏もそうだと思いますが、
私がもっとも危惧するのは
多様性の消滅です。
そして
観念的な人間の一番の問題性は
それが疑似的が感覚入力に過ぎないのに
●分かったつもりになることです。
しかし、それはあくまでも、仮想として
分かったつもりになっているだけであり、
だからこそ、残念ながらいつまでたっても
人間は争うのです。戦争をするのです。
つまり蓋をあけてみると、そこには
自分が想定したこととは違う、或は違和な世界が現れるからです。
※ただその時、自他の分離ができている人間は
それを受け入れていきますが、
自他の分離ができていない人間は、
失望したり、怒ったり、絶望するのです。
なぜなら人間の脳のはたらきには
自分と外的世界や他者を<同じとしてしまう>働きがあるからです。
同様なことを、養老氏の本では、
「同じ」と扱う脳の働きとは?と
書かれています。
また、自他の分離が脳の中で定着するためには
たくさんの失敗や挫折や争いを経験する中でしか
できえません。
つまり自分の体験的な感覚入力の実感により、
つまり生々しい人間関係を体験しながら、
初めて他者と自分の大きな違い、
自分と社会一般の通念の違いやよじれを
理解できていくのです。
・・・・
京都から帰ってきて、
なんとか私自身の頭の中を整理せねばと思い、
立花氏、養老氏の本を読み始めました。
ただ、
それでも私の心は安らがず、
そして二つの本を読む合間に
中野孝次先生の本「風の良寛」を三度目のひも解きました。
あゝ私は、こういう世界にまた戻りたいとおもい、
さらに山頭火の句集も読み始めました。
次回はそういうことを書いてみようと
思います。

今年もまた4月29日(日)に相模原で
「第3回 さがみ人間未来フィルムフェスティバル」が開催されます。
親友の能勢広監督と村上浩康監督らが主催する映画祭です。
どうぞよかったら、足を運んでみてください。
特にラストの「小さな学校 篠原小学校の記録」は逸品です。

●プログラム
会場 12:30
開会の挨拶(5分)13:00
1Birth-おどるいのち(29分)13:05
2虫愛でる姫(15分)13:40
3町のお肉屋さん(10分)14:00
休憩(10分)
4夜明け前の子どもたち(120分)14:25
休憩(10分)
5御神木の独り言(15分)16:40
6阿波の襖からくりの習俗(60分)17:00
休憩(10分)
7細川紙(39分)18:15
8小さな学校(60分)19:00
閉会 20:05
どうぞ映画をお楽しみください。
疲れ切っている。
ただ、それも私が歳をとっていて、
人生そのものにも疲れているからかも
しれないのだが。
とにかく、スピードが早く、
小刻みに刻まれて来る情報や刺激に、
神経が疲れ、
ついていけないのである。
まあ、そういう私の事情もあり、
養老氏が書いておられることに
私は共感する。
先般私はパソコンが故障したのを機に
京都へと旅行しました。
それは私の頭の中を駆け巡る<意識>のスイッチを切るためです。
スイッチを切り、それまでの脳の中で連鎖し、
あれこれと暴走する意識を
いったん遮断し、
頭の中を白紙にもどしたのです。
京都に旅行することで、
自分の日常性をいったんごわさんにし、
逆に京都では、美しいもの、面白いもの、
非日常の知的な刺激をくれるものを
感覚入力し、やっと
私の体と脳との自然なコネクトへと再設定できました。
デジタルな世界とは、
頭の中を行きかう<意識のせかい>ではないかと
私は思っています。
養老氏が言う意識の世界です。
養老氏はその意識の世界がどんどん煮詰まってしまっていると
書いています。
なぜなら、それは
意識が先行し、体の感覚入力がおろさかにされ、
本来なら人間は感覚入力しながら(体験しながら)
外的世界を掴んでいったのに、
現代の人工的世界で、
どんどんコンピューター情報の世界のほうが上位におかれ、
それぞれの個人(自分)が感覚入力して得る情報が
下位に置き去りにされているからだと、
いっておられるのではないかと
思います。
※事実私の周囲にも、自分が人生の中で体験したことや
実感したことを、自分でデイスカウントしてしまい
逆に
コンピューター世界、つまりインターネットで得たものが
あたかも素晴らしいように錯覚している人が
かなりいます。
本来自分が体験したり、経験して、
実感して(感覚入力して)得た世界より、
頭の中で得た知識や意識の方を有力視して生きている。
そういう頭でッ価値の観念的な人間が増えているように
思います。
立花氏の本を読むと、もう文明の進行と技術革新は
とめられようもないように思います。
つまり世界中が、もしかしたら地球中が
人工的世界へと突き進むかもしれません。
立花氏はリアリストですから、
「そんなこと言ったって
だってもう、私たちはまさに、衣食住が人工的に
工業化されたど真ん中でしか、生きれなくなっているでしょ!」
と言われそうですが・・・。
しかし
そうなると、人間はどうなるのかな~と
思うのです。
それに対して養老氏は警告しています。
人工的な世界はまさに人間にとって不自然な世界であり、
しかも都市はどんどんそうなっている。
そして都市こそは意識の世界で造られており、
そこでは<意識にとって意味のないものや価値のないもの>が
ドンドン排除されてしまう。
しかし、人間は本来、
脳(アタマ)と体の<全体性=存在>で生きており、
さらに感覚入力されたものは、漠然としてあるものや
言葉や意識でフレーム化されないものが
無意識の倉庫にたくさんある。
しかしデジタル社会はそういう、
曖昧で漠然としたものを
許さない・・・とは言いすぎかもしれませんが、
排除していきます。
そういうデジタル現象世界を
人間が選んでしまったのです。
なぜなら、それは
『人々が自然に対峙する方法をわすれてしまったことに
根本の原因がある。
なぜ忘れたかというと、
感覚入力を一定に限ってしまい、
意味しか扱わず、
意識の世界に住み着いているからだ』
と、養老さんは書いておられる。
もっと私流に極論すると、
本来アナログであるはずの人間が
ドンドンコンピューター情報世界に意識の価値が一元化され
あたかも、そういう世界が、
アナログ世界より上位にあるかのような
勘違いというか、
強迫観念に
人間が取りこまれてしまった。
・・・・・・
人間が汗をかきながら、鍬で土を耕す。
その土を手で触れながら、土のザラザラ感を確かめ
土から昇ってくる匂いを嗅ぎ
さらに土の中に手をいれると温かい。
それは土の中も生きているからだね。
そこに生きものという不連続の連続性があります。
そういう
人間の体を通して実際に感覚入力されたことと同じことを、
小説で読んだり、さらにインターネットで知っていても、
それは、その人間が体で得たものとは全くのベツモノです。
一方は、
体とその感覚が連動しながら得られたもので、
一方は、
観念の中で把握され、自分の無意識の倉庫にある感覚を
ググりながら、推測、想像された疑似感覚にすぎません。
体の体験的実感と、
観念が想像して得た疑似感覚との
落差を、
人間はどのように克服できるのか。
断っておきますが、
私は今のインターネット社会を否定するつもりはありません。
そうではなく、デジタルなインターネット社会と
アナログ的人間の世界を、どのように折り合いをつけていくか
ということの重大性を思うのです。
養老さんは脳学者ですから、
人間の脳は
<個々に断絶している>ことを熟知しています。
それは岩田慶冶先生の名言どおり、
「人間は断絶を介してしか繋がれない」のです。
しかしそのことは、逆に言うと、
人間は個々に、多様な、その自分世界を生きている、
ということです。
その<個々に多様な自分世界>とは
まさに
人間がそれぞれに、
<自分の感覚入力した世界>を持ち、それに基づいて
生きているからです。
ところが、
<意識>で繋がるデジタルなコンピューター世界
インターネット世界は、
その個々の多様性をドンドン抽象化し、
平板化、或は一般化して
成立しています。
もっと平たくいうと、世界がどんどん
コンピューター世界でフレーム化されていくということです。
多分養老氏もそうだと思いますが、
私がもっとも危惧するのは
多様性の消滅です。
そして
観念的な人間の一番の問題性は
それが疑似的が感覚入力に過ぎないのに
●分かったつもりになることです。
しかし、それはあくまでも、仮想として
分かったつもりになっているだけであり、
だからこそ、残念ながらいつまでたっても
人間は争うのです。戦争をするのです。
つまり蓋をあけてみると、そこには
自分が想定したこととは違う、或は違和な世界が現れるからです。
※ただその時、自他の分離ができている人間は
それを受け入れていきますが、
自他の分離ができていない人間は、
失望したり、怒ったり、絶望するのです。
なぜなら人間の脳のはたらきには
自分と外的世界や他者を<同じとしてしまう>働きがあるからです。
同様なことを、養老氏の本では、
「同じ」と扱う脳の働きとは?と
書かれています。
また、自他の分離が脳の中で定着するためには
たくさんの失敗や挫折や争いを経験する中でしか
できえません。
つまり自分の体験的な感覚入力の実感により、
つまり生々しい人間関係を体験しながら、
初めて他者と自分の大きな違い、
自分と社会一般の通念の違いやよじれを
理解できていくのです。
・・・・
京都から帰ってきて、
なんとか私自身の頭の中を整理せねばと思い、
立花氏、養老氏の本を読み始めました。
ただ、
それでも私の心は安らがず、
そして二つの本を読む合間に
中野孝次先生の本「風の良寛」を三度目のひも解きました。
あゝ私は、こういう世界にまた戻りたいとおもい、
さらに山頭火の句集も読み始めました。
次回はそういうことを書いてみようと
思います。

今年もまた4月29日(日)に相模原で
「第3回 さがみ人間未来フィルムフェスティバル」が開催されます。
親友の能勢広監督と村上浩康監督らが主催する映画祭です。
どうぞよかったら、足を運んでみてください。
特にラストの「小さな学校 篠原小学校の記録」は逸品です。

●プログラム
会場 12:30
開会の挨拶(5分)13:00
1Birth-おどるいのち(29分)13:05
2虫愛でる姫(15分)13:40
3町のお肉屋さん(10分)14:00
休憩(10分)
4夜明け前の子どもたち(120分)14:25
休憩(10分)
5御神木の独り言(15分)16:40
6阿波の襖からくりの習俗(60分)17:00
休憩(10分)
7細川紙(39分)18:15
8小さな学校(60分)19:00
閉会 20:05
どうぞ映画をお楽しみください。
by denshinbashira
| 2018-03-17 08:48
| あたらしい時代へむけて!
|
Comments(0)

