造り出す喜び、手ごたえを感じる喜び、実存する喜び!その1 |
若い人が書き、作った本です。
いいです~!
文も軽やかで巧い。そして言葉も美しいです。
シュールな空気の中に透明感もあり、
文章の向こうに色彩がみえてきました。
まずの感想は、
随分レベルがたかいな~ということです。
一方で、
ここに漂う空疎な、実存感のないものは
なんだろうと、いう感想です。
その背後に「死」や「虚無」を感じます。
でも、それも美しく語られています。
傍観的にです。
ちょっと怖い気もしました。
はっと思い当たることがあります。
それは、時代が若者達の実感や実存観をうばってしまったのでは
ないか、ということです。
実感とは、実際に心とからだで感じる手ごたえです。
実存感とは、自分が今ここに生きているという実感です。
この実存という感覚も、
頭と体とで、自分が生きていることの手ごたえを感じることです。
感覚が刺激されて、感覚で感じたことを
頭の中でちゃんと肯定できているということです。
ただ、そういうものが希薄になる原因として、
時代が今の若者達からそれを奪ったからではないかと
思うのです。
つまり、
あまりにも文明が進みすぎて、便利になり、豊かになった社会では
すべてが用意され、準備され、簡単に手に入り、
自分で何もしなくても、
そこそこ、物が手に入るという、
そこそこ生きられるということです。
もっというと、そのことの先には、
なにも自分がいなくても、しなくても、いいという
自分不在の感覚で、
自分が必要とされてはいないという
虚無感です。
自分でゼロからなにかを造り出す必要もないし、
からだを動かしながら、実際に労働する必要もないし
プロセスを体験して、生産する喜びや、
困難なことをやり遂げながら、
自分の手で何かを掴み取る、という実存的な喜びや
なにかを達成した感動や、
或は動いて、体験して、考える中で、
ピンと来て実感した、という
実存の喜びを奪われ、希薄にさせているのではないかという
危惧です。
これはもしかしたら、人間にとっては不幸かもしれないのです。
なにもかもがすでに出来上がった状態で
そういう社会の中で、浮草のように生きるという
不幸です。
ちなみに戦後すぐに生まれた私たちは、
なにもなくて、貧しくて、
子供ははだしで遊んでいましたし、
車社会ではありませんでしたから、
子どもは道路で群れ、また、野原や空き地で
遊びまくりました。
遊び道具なんてありませんでしたから、
自分達で工夫をしたり、なにかで
間に合わせたりして。
小学校時代は勉強するなんてことは、
余り頭の中にはありませんでした。
食べ物も少ない時代に、
今でも覚えているのは、
粉末のイチゴジュースを水にとかして飲んだ時の感動。
なんて美味しいんだろうという感動は忘れません。
また
七輪で煮炊きをしていた家に、
はじめて石油コンロが来た時の感動、
火をつけただけで、火が使えるのですからね。
家の中にお風呂が出来た時の喜びの感動も、
それまでは共同のお風呂に入っていましたから。
あのトトロのように結核で療養中の父を訪ねて行った時、
父の病院の食事にでてきたボンレスハムをみて
なんて美味しそうなんだろうと眺めていた感動、
当時はハムは高級品で、なかなか食べることなどできませんでした。
ウインナーソーセージを初めて食べた感動も、
中学の時に母親がつくってくれたスパゲッティなるものを
食べた時の感動などなど。
おお、世の中には、こんな食べ物があるのか~という感動です。
今から思うと文明が進化していく都度に起きる
新しいものに対する新鮮な驚きや感動がたくさんありましたね。
今はみんなそれらが揃っています。
随分高次な文明の恩恵をうけています。
ただ、
そういうものが全部準備された中に生まれた若者たちにとっては
自分が係わることで体験し、発見し、
実感するという
自分の実存を確認する機会を
奪われているかもしれません。
なんだか、そう考えてくると、
若者たちが、あとは観念世界を磨くしかないという世界に
はいっていくのは、
条理のようなきがします。
受け身で生きる、或は傍観的にいきるのも
当然の流れのように思います。
まさに、今回私が読んだ本は
観念が磨かれ、観念的感覚で描かれたシュールな世界でした。
でも、それはそれとして優れていましたよ。
しかし、もしかしたら、これはかなり深刻な問題かもしれません。
観念が先行することは、生々しく、瑞々しい実感が疎外されますから、
人間を軽く、或は物のように
扱ってしまう危険があります。
つまり、人間としての生々しい感性と感情が希薄になり、
自分も他者も、
まるで物のように思えてしまう危険があります。
だからこそ、
そういう時代であっても、
観念人間の自分を打破するためにも
果敢にチャレンジし、世の中を
体当たりでいきてほしいと
思います。

「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニは
汽車を降りてこの世へと帰ってきます。
それはこの世に帰り、再び修行するつもりで
帰ってきたのだと思います。
多分それが賢治の決心と覚悟と思いであったと思います。
もしよかったら、読んでみてください。
