西郷どんとワールドカップ!勝っても負けても潔く! |
ワールドカップのことを思いだした。
西郷はその時、つまり昨日放送されたように、
二度目の流罪で沖永良部島へ遠島されたこの時こそ
西郷の中で大きな変容がおきたのではないかと
思うのです。
二度目の沖永良部島に遠島された西郷は
雨ざらし、吹きさらしの二坪牢屋に
閉じ込められます。
そこは生き地獄でもあり、
その過酷な牢の中で死にかけた西郷には、
もしかしたら、ここで何らかの覚醒があっかもしれません。
これは私の独断ですが、
もしかしたらこの時、死と生の淵で、西郷は
超越したかな~とも
思うのです。
超越とは、自分を捨て、
自分の利害をも捨て
自分の自我に固執することを捨て、
すべてにおいて、何が一番優先れるべきかを
その後の西郷の行動を見ていると
そう思うのです。
さて、そう思いながら、例のワールドカップでの
日本が勝つための戦術は、どうなのか、と思うのです。
西郷も沖永良部島から帰還してからは
とても腹黒くなります。
勝つためには手段を選ばずということもあります。
しかし西郷が勝つことの先に見ていたものは
なんだったのでしょう。
逆に西郷が負けることの先に見ていたものは
何だったのか?
おそらく西郷は、
勝つために、勝つたのではなく。
反対に負けることを受け入れたのも
単に負けるということではなかったように思います。
おそらく勝ち負けなど超越して、
さらにその先に見えてくる世界を
見ていた。
勝ち負けとはいずれもプロセスにすぎず、
何を獲得していくか。
だからどうしても勝たねばならない時は
手を汚しても勝つ。
しかし、負けることで、逆に前へすすむことができるなら、
それもよし。
だからこそ、
「おいどんの体をあげましょう」
といって西南戦争に身を投じたのも、
どうしても、避けては通られない現実の中でもがく
若者達への愛情であったと思います。
私の結論としては
やはり、あのゲームは姑息だな~と思います。
勝つ事ばかりを目的化したものは、卑しいです。
だって例の日大アメフトの問題だって
根っこは同じでしょ。
西野監督の顔は、
結果ばかりを目的にする官僚の顔にしかみえませんでした。
勝っても、負けて、その先に
晴れ晴れとするものを見なくちゃ~ね!
勝つことばかりに執着するのは
卑しいです!
どうでしょうか、
西郷どん!
ご堪能ください。