逃げたんだ!最終回 世の中はアンタの才能をまっている! |
それは当たり前のことです。
しかし人が何らかの喜びを得て、
エネルギーが湧いてくるのは、
自分が他者の役に立った時や、
他者から喜ばれた事だと、
私は考えています。
アダルトチャイルドという現象があります。
それは子どもなのに、
親や大人のような意識レベルになってしまう
子どもたちのことです。
子どもなのに大人のような判断をしたり、
大人のような振る舞いをする。
子どもなのに親や大人のようなスタンスに立ち
反対に、大人から相談されたり、大人から依存されたり
子どもなのに親や大人の面倒をみようとする。
まだまだ保護されて、守られてしかるべきこどもなのに
反対に親や兄弟を保護したり、守ろうとする。
つまり
子どもなのに、
無心に無邪気に、子どもらしく生きることができない子供たちを
アダルトチルドレンといいます。
大切な子供時代を喪失してしまった、
子どもたちのことです。
そしてその子ども達は成長して大人になっても
自分のこころの中にどこか
子どもとしての不全感がのこってしまいます。
つまり本来は、
子どもとして満たされるべき満足感を
得ないまま、
大人になってしまったために、
フラストレーションが残ってしまうのです。
そのフラストレーションの底には
いつも、自分が不在であるかのような感覚や
いつも自分が満たされない、という不全感が
つきまとってしまうのです。
ほんとうは子供なのに
おとなまがいの役を担って生きてしまった。
本来は何も考えずに腹いっぱい遊んで、
子どもらしい自由さや天真さや、
無茶やアホなことや時にクソガキの、
子どもらしい奔放な世界を味あわずにきたために、
大人になっても
どこか薄いというか
貧弱というか
いつも
無味乾燥な大人もどきの自分であり、
そこには、
大切な子ども時代を、
大人の仮面で生きたために、
満たされていない自分がいる。
そういうアダルトチャイルドが
大人になった時、
その反動が起きてきます。
それは強烈な自分への執着です。
それは、もうこれ以上大人のために生きたくない!
もうこれ以上大人に介入させたくない。
自分の世界を大人や親に荒らされたくない、
もう嫌だ、これ以上
自分を大人に捧げたくない、
しかし、子供時代に作らなければならなかった
どうしたらいいか、わからない、から
とりあえず外界をシャッタアウトにして
引き籠り基地をつくる。
今まで自分のことはあと廻しで
親や大人の事ばかりに心身をつかってきたが、
もう、自分のこと、
自分が感じる喜びや、
そこに微かに沸き起こるエネルギーにだけに
執心したい。
という欲求が湧いてくるのです。
アダルトチャイルドは、
子ども時代、
そつがなく、まあ、
旨い事大人へとなじみますから、
一般的なことは、かなり上手です。
しかし
子供時代をとおして
自分の本心の欲求を無視して生きてきましたから、
その反動で今度は、
自分の心を投影した、
自分の分身であるかのように感じられる、物、事に
自分の欲求や感情のはけ口を求め
強い執着が起きてきます。
つまり自分が子ども時代に
子どもらしい我儘や執着を放棄してた反動が
今度は逆に
大人になって出てくるのです。
大人なのに、こどもっぽいものに執着したり、
大人なのに強いこだわり症になったり、
何時までも子どもグッズや玩具や
衝動買いやコレクションに陥ってしまったり、
時にはとても我儘な振る舞いをしたりと、
どこかで喪失した子ども時代を取り返そうという
その人間の現象が起きます。
大人としては、困ったちゃんになってしまう。
特に団塊の世代の親の子供に対する教育は、
そういうアダルトチャイルドをたくさん産んでしまったと
私は思います。
ほんとうはとても大切な子供の時間を
勉強や受験で奪い、
いつの間にか、皆ながエリートを目指し、
それが幸福につながるような錯覚の教育が
はびこったと思います。
戦後、日本は驚異的に世の中が豊かになました。
だから
生活や時間に余裕ができたことも
一因だと思いますが、
それだけではない、何かによって
日本の教育はボタンを掛け違えたと
私は考えています。
※その辺のことは社会学者たちにがんばって
分析、解析してほしいのですが。
いつの間にか、
大人が大人として育ち切れず、
大人なのに子どもみたいな精神年齢の親、
成熟しきれない大人たちが
たくさん産まれ、
大人子どものまま、子どもを生み育てる。
そういう中で、
大人と子供が逆転して、
大人の中には
恋愛ごっこが幅を利かしたおかしな文化もはびこり、
※↑このことはいつか書きます
両親はいつも自分達の争いばかりにかまけている。
そんな中で
その小さな胸を痛めていた子どもも
たくさんいたでしょうし、
大人なのに子どもに依存する親を抱えて
子どもの自分を諦めて、
必死で背伸びしたている子ども。
こどもなのに、大人みたいに生きてしまった
子どもたちがたくさん産まれたと思います。
そして
その子ども達が成長し
大人として、世の中の風雨の中を突き進もうとしたとき、
もう、
エネルギーは尽きている。
世の荒波を乗り切る気力も意欲も、
尽きてしまった。
更に
子供時代の体験が希薄なために、
子どもの特権である、
奔放にイメージを膨らませて起きるビジョンが
貧弱になり、
この世に対しても、ダークなイメージしか
湧いてこない。
最も残念なのは、
そういう子供たちが、他者や世の中に対して、
もう冷め切り、
人間や社会に対しての意欲をもつことより、
自分の妄想世界へと逃げ込んでしまうことです。
これはとても深刻なことだと、私は考えます。
もうそうなると、
自分を喜ばすことの方が大事で
でもね~。
その快感こそ、ほんとうは、
その人間が子供時代に味あうべき、
自己確認の快感(喜び)であり、
自分が生きている、という臨場の実感だったのですから・・・。
彼らがそれを取り返そうとするのも、
当然でもあるのです。
子ども時代には子供時代しかない、大切な時間があります。
まだ脳が固まらず、柔らかい感性があります。
世界をどんどん感覚入力していきます。
子ども時代にしかありえない行動による発想や出遭いが
あります。
大人の秩序世界でがんじがらめになる前の
子どもしか味あうことができない、奔放な感覚や感性が
ファンタジックに、そしてマンダラのように
子どもを包み込んでいます。
さらにとても大切なことが
子供時代にしか獲得できない、
大人の世界では、結びえないような、
柔らかい他者との人間関係です。
※残念ながら、日本では
子供世界に大人が深く介入したり、
大人世界を投影したアダルトチルドレンが
多く生まれため、
子供世界にも、その膠着が投影され
苛めなどで、子どもの柔らかい人間関係すら
歪んでしまったと私は考えています。
それを奪われたアダルトチャイルドが
自分の殻に閉じこもり、
妄想を膨らませ、
反対に現実から逃げるのは
当たり前です。
しかしね、
これは、やはり人間の自然さではありません。
人間は<関係>の中に生きています。
人間は自分ひとりでが生きられません。
常に自分以外の人間や外的世界と交流しながら
生きているからです。
ましてや、
自分の中に閉じこもり、
その自分を喜ばすことばかりに執着し、
そういう快感ばかりの中にいると、
自分が自分で完結しますが、
しかし
それは自家中毒のように自分を冒していきます。
その快感がないと自分が生きているという実感を感じらず、
依存がどんどん進みます。
他者や、社会への窓を閉じ
自分が自分にもたらす快感で自分を満たそうとするから
極端になにかにこだわったり、執着したり、
コレクションや衝動買いが止まらなくなったりします。
現実にそっぽを向きますから
逆に自分の妄想世界が現実のような錯覚に陥ったりします。
また
何時までたっても、
●子ども時代の人間関係を引きずってしまいますから、
人間関係なんか、そんなものだとたかをくくったり、
新しい人間との出会いや人間関係を築くことも
面倒だと思いこんでしまいます。
生きれなくなります。
でもね~、
世界はこんなに広く大きく、多様なのですよ。
それに気づかない限り、
自分の前に開いている新たな自分の可能性にも
気づくこともできません。
そして
自分が子ども時代に思い込んだことを
書き換えることもできないのです。
まことに残念ですが、
新しい出遭いや新しい経験や
新鮮な人間関係なども
経験、体験しないまま、
自分の貧しいアダルトチャイルドの世界を
書き換えることが
できないのです。
もう一度言います、
人間は<関係>の中で生きている
生き物です。
だから
自分に籠り、
自分で自分を喜ばす、
自分を自分で埋めようとすることには
限界があります。
悪くするともう、それは精神(心)を病ますことにも
なりかねません。
確かに世の中も他人も厄介です。
しかしそこには同時に
他者がもたらす窓が開いています。
自分にはない、他者がもたらす新鮮な風も
吹いています。
犬も歩けば棒に当たる・・・・という思いがけない偶然だって、
あるでしょう。
そして最も大きなことは
他者のために自分が役に立ったときこそ、
人間は嬉しいのです。
もともとアダルトチャイルドになってしまったのも
親を喜ばそうとした、その子どものけなげな気持ちが
そうさせてしまったのですからね。
現代の大衆によって起きる様々な現象の底には、
こういうアダルトチルドレンが
なにか一因としてあるような気が
私にはします。
ただね、
世の中とは、
様々ななる才能によって
成り立っています。
ほんとうに小さなことから
大きなスケールの事まで、
それは生きている人間、全員の才能が様々に
かかわり合う中でこそ、
成立しているのです。
自分という存在は
無意識に、無自覚の裡に
誰かの役に立っているのですよ。
さて、
このシリーズは
Aさんという若者の
「逃げたんだ!
朝ね、目が覚める前に突然
逃げたんだ!って
わかった。
私、逃げていたんですね。」
という言葉から書き始めました。
きっとAさんと同じような若者もいるはずだ、
だからこそ、
書いておかねばと思い、書きました。
逃げないで、
その才能を、世の中や他者のため
生かしてほしい。
生きることは悪戦苦闘したり、
七転八倒して
頑張るしかない。
でも、
それを覚悟してさ、
体当たりで生きてごらんよ。
世の中は
アンタがその才能を生かして
役にたつことを
待っている。
そして、しつこいですが、
人間のほんとうの喜びは
他者のために自分が役だった時です。
自分も喜んで、他者も喜んで
そこにこそ、
エネルギーが湧いてきて
明日もまた、
頑張ろうって、
ね。
終わります。
素敵な言葉を有難う御座いました。
世の多くの若者達や、納谷丸親達に、読んで貰えたら、どれほど世の幸いに繋がるかしらと思いました。
有難う御座いました。・・・土師より
コメントをありがとうございました。
そしていつもイイネをいただき、
ありがとうございます。
とても励みになります。
また「暁橋のたもとから」
いつも清々しく拝見しております。