なぜ、私は映画を作るのか、その4、愛しかない。 |
なかなかお伝えするのが難しいし、
書くものむずかしいのですが、
なんとか、書いてみます。
もし私がこの先も創作活動を続けていくとしたら、
そこには愛しかないと考えています。
絶望もないし、深刻なこともない。
愛しかない。
かといって安易な天真無邪気なものでもないし、
愛しか描かない、と私は考えています。
なぜ私がそう思うかというと
私は自分が許されていると、思うからです。
誰から、というと、それは人間ではありません。
なにかこう、、もっと大きなもの、大いなるものから
ここに存在することを許されている、と思うのです。
断っておきますが、それは宗教ではありません。
私の実感でそう思うのです。
つまり過去を思うと
私の人生は間違いだらけであったこと。
未熟でどうしようもなく、
もう、ほんとうに穴があったら入りたい恥ずかしさです。
失敗だらけのこの愚かしい私のしでかしたことすべてが
許されていると思うのです。
だからこそ、
今、私は過去を忘れて平然と生きていられるのでしょう!
私は沢山の失敗をし、時に他者を傷つけ、
時に自己本位の振る舞いをして、
時に欲張りであったからです。
もしかしたら、他者に平身低頭で頭を下げなければならないことも
あるかもしれない。
それは
自分が知らないうちに傷つけたり、
見下したりしてしまった他者たちにです。
長い年月のうちに、
自分が風雨にさらされる中で
歳をとり、経験や体験が積もる中で
やっと気づいた、自分の傲慢さや愚かさです。
でもね、
そんな私でもおおいなるもの、それを神と形容すれば、
神様から許されていると思うと
ホッとするのです。
※この場合の神も宗教的な神ではなく、
私を超越してある、大きなもの、という意味です。
私はチャチな愛は許しを言っているのではないのです。
口先の宗教を説いているのでも
自虐的に言っているのはありません。
今この歳を得て、しみじみそう思うです。
私は自分の中に様々に起きて来る感情。
それは喜びの感情もあったが、ほとんどが
厄介な、手に負えない、さらに憂鬱な、そして
自分の非を棚上げして他者を攻撃したくなる荒々しい感情と
それが逆転して起きて来る自己憐憫などに
もう、70歳近くまで悩まされました。
日々、私の感情に顕われるそれらとの格闘で、
かろうじて、私は理性でそいつらを押さえこんできました。
そして、
こんな私でも存在させてもらった、と思うのです。
カウンセリングで懸命に心の中を掃除しましたが、
しかし私の根源にはまさに動物の遺伝子があり、
私の脳の一番奥にある、辺縁系の部位の働きである
動物的威嚇と攻撃の感情はどうしても消えません。
なぜなら、それは脳の中で、
一番強いエネルギーを持っている部位だからです。
それは、すべての人がそうであり、
その脳をコントロールするには、
自分の理性の働きを磨き、
考察を深めるしかないのです。
いかに理性を磨き自分をコントロールするか、
その為には冷静に客観的に、自分を見つめるしかありませんね。
まあ、人間の宿命というか、人間のもつ不条理です。
人間とはそういうものだ、という風に
私は思うのです。
そう思いつつ
しかし、その先もあるのではないかと
私は考えたのです。
つまり
もともと人間は卑小で未熟な自分を生きるしかないとしたら、
しかしそれでもその先がある。
と私は思うのです。
そもそも、存在とはなにか。
私たちは何のために存在しているのか。
存在するために存在しているのか。
という根源的な問いかけに応えるには
存在するしかないのです。
存在しながら見つけるしかないのです。
ではどう存在するのか、というと
これも、
存在してみなければわからないのです。
人間には予定調和の人生などありえないのですから。
だとすると、それは
その人間の失敗も挫折も愚かしい間違いも
もしかしたら罪深い過ちも
それらすべてが、そのようにプログラミングされて
それを承知の上で存在するしかない。
でも、そこに人間の<考える葦>としての課題を
神が放り込んだ。
なぜなら、人間は考える、という知恵の能力を持ってしまったからです。
だから、
何もかもが許されるわけではありません。
決して許してはいけないこともあります。
ダメなことはダメなのです。
戦争をしたり、人を殺したり、
勿論多くの犯罪が許されるはずがありません。
しかしなぜ人間はそれを冒してしまうのか。
そこにこそ、
人間が、動物の脳の遺伝子を乗り超える課題があります。
幸いな事に、私はそんなめに会いませんでしたが、
ただ、そういう過ちを犯した人間も、
存在している。
存在とはなにか。
人間とはなにか、どう生きるのか。
おそらく私という小さな点、その点のその先の先の
遠い遠い先には、
それらの人間の点もあり、
実は一本の線で結ばれている。
人間は、人間という括りで結ばれている、と
私は考えます。
なんだか哲学的な難しい話になりましたね。
そのうえで、人間は未来をどう構築するかが
もう、厳しく問われだしている。と
私は思います。
それは今のインターネット社会、やAI社会の先に
何があるのか、そのビジョンとは何かが、問われることであり。
さらに
日本でも、世界でも、明らかにおかしな人間が
跋扈しています。
醜い事、おぞましいこと、そして美しくない人間の姿が
あります。
解決されていないことが山ほどあり、
人間が気づかねばならないことも海ほどもあり、
しかし、
そういうことを残したまま、
私は去らなければならない。
ホントはもっと役に立ちたかったと
私は思うのです。
ドストエフスキーはこの世の道理を次のように書いています。
「どんな草も、甲虫も蟻も、金色の蜜蜂も、生きとし生けるものが、
およそ知恵などというものを持たず、
驚くばかりに自分の道をわきまえ、神の奥義を証明し、
倦むことなくその成就につとめている。」
人間も同じだと思うのです。
草や虫や空という現象と同じように
ただ、生きているに過ぎない。
※ただ現象化しているに過ぎない。
自然というおおなるものに包まれて
生きているに過ぎない。
それが存在であろうと
私は思うのです。
それを理解した時、初めて
人間は自分を過信せず、傲慢を捨てて、
驚くばかりに自分の道をわきまえるであろう、と。
人間が自分の道をわきまえるとは
どういうことであるのか?
きっとそのことにいつか人間は気づくに違いないと
私は思います。
だから私は映画を作ります。
そこには愛しかありません。
厳しい自然の中を生き抜く人々、
もしかしたら、
これからの文明が過剰に進む時代において
土にまみれ、泥の草を抜き、そして収穫の喜びや、
祭りのささやかな楽しみの中を生き、
風や雲を愛し、空を見上げて淡々と生きている、
極めて、アナログな時代の人間を、
感傷適でもなく、陶酔的でもなく
淡々と映画に残しておこうと思います。
児玉さんが愛しながら人々を描いたように。
私もただ、自然と人間を愛して、
映しておこうと
思うのです。