映画 仮題「どこかに美しい村はないか」撮影日記3、みんな承知の上で…?! |
今回の映画プロジェクトについて基本的なことを
詰めていきました。
それを詳しく書くと、
映画を見て頂く時の先入観になり、
観客の感性を妨害することになりますから、
書きませんが、
多分これまでのドキュメンタリー映画とは、
ちょっと一味ちがったものになるかもしれませんね~。
能勢監督と話し合ったのは、
説明的なこと、解説的なこと、説得的なこと、そして感情的なことや、感性の押しつけを
極力排する。
だからインタビューは一切ありませんし、
登場する人についての説明は、
もう極小のことにとどめるだけです。
観客それぞれが、それぞれの感性と心で感じ取り、読み取り、
そして考えていく、ということが基本です。
人間はみんな内面の、癖があり、偏りがあります。
地球上30億人間がいたら
30億の癖や、偏りがあるでしょう。
だから30億の癖を、そのまま映画やドラマや小説や演劇にしていけば、
大変恐縮ですが、私の独断と偏見かもしれませんが、
いわば、これまでのドラマや小説や演劇、映画は
この世での自分の癖と他人の癖を、
探り合う、という、
そのさまざまなバリエーションを題材にしている・・・??
人間模様はほとんどそこに尽きるといってもいいかもしれません。
傲慢ですみません。
ただ、私はそこは
見ません。
むしろ、人間の癖や偏りなど、
どうでもいいのです。
どうでもいいというより、
それはもうみんな承知の上であり、
それを十二分にわかったうえで、
つまり
その人(登場する人)のいちばんキモの処だけに
焦点を当てていきます。
もう人間が、いかにおかしいかも、
いかに大変かも
人間それぞれが個性の中でいかに、もがき、苦しみ、
懸命に生きているかを、
そのうえで、
その人のいちばん素敵なところを、
それだけをとりだして、光を当てていきます。
いうなれば、
まあ、こういう言葉も、軽々しく、言い尽されているとは思いますが、
その人の
魂のところだけに、映像でスポットを当てていきます。
だから、言葉はいらないのね。
そして
それらの人々を、遠野の自然の風景と音と音楽が、
包み込むと思います。
映画の進行を見守るだけです。
勿論渉外的なことは全部私がやります。
これからはできるだけ、撮影や映画の進行を
このブログでお伝えいたしますので、
できますれば皆さまも、
私と一緒に映画を作るつもりで、見守ってくれませんか。
どうぞよろしくお願い致します。







