2018年 11月 19日
映画仮題「どこかに美しい村はないか」撮影日記6、感傷的な映画は撮らない! |
私の最後の仕事として今、
遠野で映画を撮っています。
そのことでちょっと書いておきます。
私は、映画を創ることで、
遠野を幻想化しているのではないのです。
むしろ、
映画で遠野を幻想化しようとしているのです。
感傷的な映画は創りません。
これはどういうことであるかを説明するのが難しいので、
私と伴に映画製作にお付き合いいただくことで、
少しずつそのことを、
ご理解いただけると思います。
すみません!!
いうなれば、
遠野の厳しい現実は、現代日本の現実でもあります。
高齢化社会とその反動としての後継者の不在。
そしてますます深刻になる、
人口減少をどう乗り越えるかの現実です。
この現象は、
文明の先進社会で起きる先進国としての現象でもあります。
映画は遠野を撮りながらも、
それを解決する糸口を模索していきます。
そうでないと、この映画は、アナログ時代の懐古と追想で、
あゝ昔はよかったね~、で終わりますからね・・・苦笑!
そういう感傷的におわるのではなく、
遠野及び、日本の地方都市、
特に農村のこの危機、を
いかに力強く乗り越えていくか、を模索しながら、
この映画を創ります。
その入り口に
ガラス絵の中にあるアナログ時代の遠野の風景や光景と
営々と受け継がれてきた風土と気候がある、と、
考えています。
さらに日々の暮らしの中から生まれ、
綴られてきた伝承や伝統に
遠野のアイデンティティ―があります。
そしてそれは
日本と日本人のアイデンティティーでもあります。
それらを製作の頭の角に叩き込んでおきながら、
映画を撮っていきますが、
ただ、それは、
何が答えなのかは
今、
わかりません。
ひとつ確かなことは
遠野の美しい風景は
まぎれもなく、人間と自然との合作だからこそ
美しいということです。
自然と人間の暮らしとの共同の中でこそ、
綴られ作られたきた風景や光景です。
凡庸な日々の中で綴られたきた
人間の労働と自然との合作です。
しかし、
この美しい風景が、機械や人工知能や、高度の化学テクニックで
乗っ取られたとき、
そのまま美しくあるか、どうか。
私の考えでは
おそらく、この美しい風景から人間の姿が消えるのはないか、と
思います。
人間の代わりに機械やロボットが田畑にいるのではないでしょうかね~?
それははたして、
美しいかどうか・・・?
ただね、映画では、そういう説明も、説得も、
一切しません。
しかつめらしい理論なんか、振りまわしません。
ナレーションもありません。
ただ
映像があるだけです。
でもね、
その映像が美しければ美しいほど、
そして幻想的であればあるほど、
人々は考えるでしょう。
感じるでしょう。
そこには、人間がいたことを、
です。
あとは言いません。
この日は茅葺屋根の家と、それを囲む山々、そして
傾いてゆく月を撮りました。
監督は月が昇るととにも
ボッと灯る民家の明かりをとりたいと、
言っておられました。


宿はいつものB&B<ヤマガラ文庫>さん

by denshinbashira
| 2018-11-19 07:45
| 遠野の映画撮影日記
|
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