「MIZUTAMA」5号、新しい時代に向けて、その1 |
気づいておられるかもしれませんが、
今、大きな、或はとんでもない時代の転換期が
来ています。
ひとつは紙に書くことがなくなる、
ペーパーレス、電子の時代に入っていること。
もう一つはいよいよAI技術の時代が来るということです。
※AI=人口知能はまだ完成していません。
開発途上です。
一般にAIといわれているのはAIを開発、
完成させる為の技術のことです。
人間はその有史に於いて、
4万年前に洞窟の壁に何かを描いた時代から
ずっと物と対峙し、物や紙に
自分の内面情報や伝達情報を書き(描き)つけてきました。
今その歴史の時代が終わろうとしているのです。
驚きです。
そしてもう一つは、
人間の労働が、かなりの領域まで
AIの技術によって代理され、
賄われるという時代に入ったことです。
おそらく今の仕事の50%以上が、
AIによって奪われるのではないかと
いうことです。
それは単に利便性やコストの削減だけではなく、
ことと次第によっては、多くの失業者を生み、さらに
AI技術を超える仕事しか、
人間が担当できなくなってしまうという、
深刻な事態を生みそうなのです。
今しきりに囁かれている
AIのビッグデータを背景にした統計と確率の計算機による
技術革新(イノベーション)は
大きく人間世界の有様を変えてしまうと思われます。
そのことに対して、
私はまだAI技術及びAIの全貌が見えない頃から、
※今もAIの全貌が見えたわけではなく、
AIを駆使した技術が
ドンドン開発されているということですが、
ある危惧を抱いていました。
それは人間の劣化です。
人間の脳の劣化がおきるのではないかという危惧です。
先般日本橋の丸善にゆき、
AIに関する本を買って読みました。
ショックなのは、
そこにはやはり私が危惧したことが書いてありました。
書いてあったのは、日本の子供たち、といっても
大学生も含めてですが。
彼らは、極端に文章の読解力が低下しており、
教科書をまとも読むこともできず、さらに
理解することもままならない子供たち(大学生も含めて)の、
現状がある、ということです。
AIは計算はできますが、感じたり、考えたり、推察したり、
さらにそこから飛躍させて創造するということは、
できません。
AIはビッグデータを背景に瞬時に統計し、確率をはじき出しますが、
文章を理解するわけではありません。
さらに
文章にあるニュアンスや香を感じとることもできません。
文章と文章の間にある空間の意味を読み取ることもできません。
それは人間にしかできないのです。
読解力は、文章を正確に理解することですが、
それは単に文章を読むということだけではなく、
そこに書いてるあることは勿論、
会話の場合の相手の言葉と文脈を、
正確に理解し、
コミュニケーションを取るという基礎的な
知能の能力です。
さらに言葉を組み立てて文脈を作るという能力は
考えたり、検証したりすることの大前提としての能力です。
そこにおいてこそ、その人の
論理的整合性が磨かれていきます。
だから、
現代の子供たちに、大きくその劣化が起きているということは
これはとても重大なことなのです。
ひとつの原因は、
戦後の受験を中心にした教育、
大量のドリルと丸暗記の教育の結果でしょう。
受験勉強とは
既に答えがでている勉強です。
勉強とは
ほんとうは、答えのないところを自分で考えて、
答えを出していく(解決していく)、
その考察の能力を磨くことなのに。
戦後教育は、
子供がその能力を磨くチャンスを大人が奪ってしまいました。
そのひずみが歪みに歪んで現象化しているということでしょう。
さらにこれは私の独論ですが
子供時代に遊びまくり、
大人が介入しない子供世界こそ、
子供自身がもっている創造性を磨くことになると、
いうことです。
子供どうしの間で体験される
コミュニケーション能力や、表現力を、
勉強という狭いフレームで、
縛りに縛ってしまった結果だと思います。
子供の頭の中はもう、その広々とした自由さや柔軟さで
満ちています。
さらにその自由自在の空間と時間の中で
子供は、
自分でその脳力をみがくのです。
子供が自分で体験し、考えたり、推測したりという
さらに失敗したり、間違えたり、
喧嘩したり、仲直りしたりという
子供の体験知や経験知による
脳回路の豊さを創り出すチャンを
大人がうばってしまいました。
そういう親たちの在り方も、大変問題があると私はもうず~っと、
このブログでも書いてきました。
学校へいくことさえ、大変なストレスなのに
さらに
夜遅くまで塾に通わせるなんて、ありえないです。
子供の自由時間がどんどん奪われてしまいました。
人間は手を使うことで他の動物より革新的な進化をとげました。
しかしペーパーレスの電子の時代は、もはや
書くことすら、やめてしまうのでしょうか。
さらに体を駆使して労働してきた人間は
もうAIによる技術革新で、からだも使わなくなるのでしょか。
私はペーパーレスが決して悪い事だとは思いません。
その利便性で、どれだけ厄介なことから解放されることか、と
思います。
しかし、一方で、
紙や物に書く、描く、記す、ということも
人間にとっては
とても大切なことだと思います。
そしてAI時代も、
重労働や危険な労働から解放されたり
さらに、有効な時間の使い方や
一気にものごとの全体像をつかむことができたり、
人間がさらに賢明になるためにも
いいこともたくさんあると思います。
ただ、
どこまでこれらの文明を進化させたり、
或は逆に
進化させないで留めるということを
人間は、考える必要があると、
思います。
私がこれから創ろうとしている映画仮題「どこかに美しい村はないか」も
そのことがベースにあります。
そして
この度、雑誌「MIZUTAMA」5号を作りました。
ペーパーレス時代に敢えて組んだ特集は、
「書くしあわせ」です。
今回は、文房具や手帳やノートを自在に使いこなし、そこに自分の素的な世界を
展開するということをお聞きしました。
目玉の読み物として、
私が遠野で偶然出会い、定宿にしている
<B&Bやまがら文庫>のオーナー夫妻の
スペイン巡礼の旅行記もあります。
雑誌「MIZUTAMA」5号は、年末の冬コミケで販売しますが、
そのご紹介もかねて、
近未来に確実にくる
ペパーレスの電子の時代、AIの時代に向けて、
私が危惧しながら、考えていることを、
少し書いて行こうと思います。
それではよろしくお願いいたします。