「芸術は、虚無と絶望を突き抜けないと、話にならない・・・」その2ゴッホとゴーギャン! |
或は何をやっても旨くいかにない。
そして自分の中に虚無をはびこらせ
絶望的になる。
しかし、そこで足を止めてしまっては、話にならない。
フィンセント・ファン・ゴッホは、
1853年3月30日にオランダのズンデルトという村の
牧師の子として生まれます。
ただ、その1年前の3月30日には、死産で生まれた
ゴッホの兄がいます。
そしてその死んだ兄と同じ名前をゴッホはつけれらます。
この辺になんだか、もしかしたら、ゴッホが両親からある
呪いをかけらたかも知れないな~、という推測が浮かぶのですが、
ほんとうのところは、分かりません。
ゴッホがその生まれつきの素質をいきるのではなく、
死んだ兄にかけられていた期待を●代理する子供として、
両親の無意識から何らかの枠づけや圧力を、特に父親から
掛けられたとしたら、
ゴッホは常に、そのままの自分と、
期待を掛けられている自分の
その二重性に苦しまざるを得ないでしょう。
※無意識は相手の無意識へと渡されます。
知らないうちに、相手の無意識に取り込まれてしまうのです。
特に親と子の関係においてはよくあることです。
そしてゴッホの中にあるメシア症候群的傾向や
何をやっても失敗と挫折に終わる彼の人生には、
最初から、何らかの黒い影が彼を脅かしていたのではないかとも
考えられるからです。
もともとのゴッホはすぐに癇癪を起しては、激する感情の持ち主であり、
当然その原因となるのは、
物事を短絡させてしまう彼の感情の中に潜む、
無力感や自己不毛感です。
しかしその感情の底には、
自分が~であらねばならない、という親が掛けた
魔女の呪いがあったかもしれません。
※魔女の呪いとは、カウンセリング用語で、
親が子供に期待して~であって欲しいと
自分の理想像の期待を
親の無意識から子供の無意識へと掛けてしまう
呪縛のことを言います。
彼が正気を失ってゆくそのプロセスには
そういう自分像への、強固な思い込みがあり、
それが現実との落差の中で、
不安や恐れを増幅させたかもしれないな~と
私は思うのです。
何をやっても理想や思いこみの方が
先走り、
故にゴッホはいつも挫折し、墜落しては
深く傷つきます。
ゴッホが目指すのは、
等身大の自分ではなく
他者のために献身しようとする理想の自分で、
その自分の思い込みが
現実との落差にあい墜落するのです。
さらに彼は、そういう自分を許せず自罰行為を繰り返します。
自分を杖でぶったり、
自分を責め続ける行為に陥るのです。
あの有名な耳切事件も、そうですね。
つまり、そのまんまの自分を生きることが
許されない、という強迫神経の中で
彼は生き続けたのですね。
そして最後の職として
絵描きに成ろうとするのです。
絵描きになっても、貧乏な絵描きを救いたいという
例のメシア症候群が顔を出し、
アルルで画家の協同組合のようなコミニティーを作ることを
実現しようとしますが、
それに応じたのは、ゴーギャンひとりしかいませんでした。
そしてアルルでのゴーギャンとの共同生活がはじまるのですが、
それもあの耳切事件のように
破綻していきます。
どうもゴッホは相手のことを過剰に思いつつも、
自分の独りよがりの思い込みで暴走してしまい。
相手にとっては、訳のわからない行動や迷惑な素行が始まり、
その結果相手や他者から敬遠されるのですね。
もともと生まれながらにして、
何らかの脳の病理を持っていたかもしれません。
そしてそれが、とんでもない強迫観念と結びついたとも
考えられます。
ただね、それでもゴッホの心の底には
純真な純粋性があります。
そしてそれをゴーギャンの世界と比べると
そこにゴッホの神聖性が出てきます。
ホントはね、ゴーギャンのことをあれこれ書くのは
いやなんだけど・・・・苦笑(どうしても悪口になっちゃうからね。)
ゴーギャンも現実には、失敗をしていきますが、
ゴーギャンの絵の中には、どうしても
自分を自嘲するゴーギャンのいやらしさがあります。
皮相的で皮肉屋のゴーギャンがいます。
それが
何を描いても、虚無や絶望をもてあそんでいるゴーギャンの姿が
彼の絵の被膜の下に油のように漂い、
絵の透明感を、薄汚れたものにしている、と
私は感じます。(これも私の独断と偏見ですが。)
あゝこう書かざるをえないから、ゴーギャンのことは
書きたくないのですよ・・・トホホ!
彼が現実の厳しさから逃げて最後の住処とした南国の島の人々の絵でも、
ほんとうは、
プリミティブな生命感にあふれていたであうそれらの人々は、
そのようには描かれていません。
つまり、その人々の中に溢れる生命エネルギーに
真底感動し、喜びに満ちて描いているのかな~・・・と
私は疑問に思うのですよ。
ゴッホのように、なんだかわけがわからないけど、
人間に愛情を持ちたいと考えている、というのではなく、
ひとびとの中の融け込むことができない、という
ゴーギャンのニヒリズムがちらちら見えます。
それに比べてゴッホは、絵の中没入し、さらに
描き切ろうという気迫があり、
最後まで描き切って筆をおいています。
つまりゴッホの中にも、
虚無や絶望が渦巻いていたはずなのです。
しかしゴッホは、おそらく無意識の裡にだと思いますが、
それを乗り切ろうという、
絵やモチーフに対する純粋さ(ひたむきさ)が、
ありました。
そこには自分を乗り越えようとするゴッホの
自分との闘いがありました。
だから有り余るその意志とエネルギーが、
まことに正直に
絵に溢れ出ています。
そして最後に力尽きて、
或は思いが過剰になって
ピストルで自殺したか、
或は誰かに撃たれたか、
それとも何かの事故なのか、
37歳のあっけない死でした。
それにくらべ、
50歳をまじかにして、ゴーギャンは
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という
タイトルの絵を描きますが、
私にはいまさらなんだ、と思います。
お前さん、いまだにそんな迷いの中にいるのかい?と
潔くないです。
そこには虚無や絶望どころか、失敗と挫折を繰り返しながら
さらに脳の病気に苛まれがらも、
どこかで人を信じ、自分を信じていたゴッホとの違い
芸術にたいする真摯さの違いを感じます。
果たしてゴッホは虚無や絶望を突き抜けたのでしょうか。
少なくとも、ゴッホはつきぬけようと
必死で走り、そして走り去っていったと
私は思います。
虚無や絶望の中にいる限り
虚無や絶望に苛まれながらも
それをつきぬけてこそ、
そこに新しい光やビジョンやイメージが、
差し込んくると
思います。
芸術も戦いなんだね。
2019年 8月30日(金)~9月1日(日)(二泊三日)
・場所は、長野県北佐久郡立科町女神湖の傍のペンション「優しい時間」です。
・募集定員は5名です。(残り2名)
・参加費は30000円
(内訳、宿泊代8900円×2=17800円+参加費12200円)
・当日は3時に現地集合です。
〇新宿からの高速直通バスがあるみたいです。
※格安高速バスのご案内
東京・新宿から蓼科牧場(白樺高原観光センター)の
高速バス予約・お問い合わせは「トラビスジャパン」
TEL 0265-71-3800 NET予約割引、早割あり。
トラビスジャパンのHPからご予約ください。
・昼食はでませんので各自負担です。
ワークシップの内容
目的 ・自分の解決したい悩みについて、心を開いて話し解決の道を探す。
・他方、他者の悩みを聞くことにより、
・他者と共感し
・自分の問題性に気づきながら
・より客観的な視野の世界を広げる。
・お互いがエネルギーを交換して
・元気になる。
・参加者は自分の意志に基づいて
・参加者全員の前で、自分の悩みについて話てください。
・田下がお話を伺い、一緒に解決の道を探します。
もちろん参加しても
話したくない人は
話さなくてもいいです。
しかしみんなで一緒に考えましょう。
・大切なことはすべて自分の意志に基づいてやるということです。
・一人で悩んでいる人は、参加してみてください。
ほかの人の話を聞いているうちに
きっと元気がでてくると思いますよ!
参加申し込みはこちらのアドレスにお願いいたします。
<blue.forest.life@gmail.com>
必要事項は以下の通りです。