2019年 02月 23日
AIテクノロジーの時代にむけて 遠野から希望を発信しますその3、茨木のり子さんと児玉房子さん! |
私の親が何を勘違いしたか、
子供の頃から英才教育として
音楽会と美術展に連れ回されました・・・苦笑!
子供の私としてはもう、退屈で、
その退屈を言うと親が怒るので、
我慢、我慢をしながら、音楽を聞き、
美術を見ました。
そのおかげかどうかわわからないですが、
私は絵を見るのが大好きです…笑!
そういう私の独断と偏見の意見ですが、
絵には、二つの種類があるように思います。
ひとつは、
1その画家が自分の自己陶酔(ナルシズム)の世界を描いている絵。
もう一つは
2その画家が自分の外側の世界への興味を追及している絵、
です。
1の自己陶酔(ナルシズム)を描いている絵は、
その画家自身が自分の世界での美しいと思うものがどんどん追求されています。
モネの世界なんかはそうじゃないかな~と思います。
自己陶酔の絵は、その画家自身で完結しているので
どんどん絵を描く技術が磨かれて、
官能的世界が広がっていくように思いますが、
一方の
画家が自分以外の世界を追及している場合は、
そのモチーフをとおして、
特に人間の背後にある物語の世界を描きだしているように思います。
それは目には見えない世界ですが、
その画家には見えていて、
ある使命感があるように思います。
また
1の作家はひたすら自分に愛情をそそぎますが、
2の作家は、モチーフ(外的世界)に、愛情を注いでいきます。
例えば、ゴッホは、人間とその生きる世界への興味と眼差しを感じますが、
ゴーギャンの場合は、彼自身のナルシズムを追及しているように思います。
しかし残念なことにゴーギャンは、
自分のナルシズムの世界が叶えられないための
ニヒリズムに陥っているようにも思います。
反対にゴッホはひたすら人々を愛そうとしたように思います。
まあ、かなりの思い込みでもありますが。
さて、では、
ガラス絵の児玉さんの絵は、どうかというと
彼女は2の作家で、ひたすら自分の外の世界である
人間や町や風景を描いています。
自分が素敵だな~と思った町や村や人々を
描いているように思います。
そして皆さんが疑問に思われたであろう、
なぜ、映画は、遠野と児玉さんのガラス絵かというと、
そこに、人々が描かれ、
児玉さんがその人々へ、愛情を注いでいるからです。
自分のナルシズムを満足させるのではなく、
愛情を注いでいるからです。
そして茨木のりこさんも、やはり
2の詩人だと思います。
茨木さんなんかは、もう、
始めから自分のナルシズムを放棄していますからね~。
二人の女性の愛が、どういう風にリンクしていくか、
映画をみてのお楽しみ、
です。

児玉房子ガラス絵 雪女 能勢広撮影

子供の頃から英才教育として
音楽会と美術展に連れ回されました・・・苦笑!
子供の私としてはもう、退屈で、
その退屈を言うと親が怒るので、
我慢、我慢をしながら、音楽を聞き、
美術を見ました。
そのおかげかどうかわわからないですが、
私は絵を見るのが大好きです…笑!
そういう私の独断と偏見の意見ですが、
絵には、二つの種類があるように思います。
ひとつは、
1その画家が自分の自己陶酔(ナルシズム)の世界を描いている絵。
もう一つは
2その画家が自分の外側の世界への興味を追及している絵、
です。
1の自己陶酔(ナルシズム)を描いている絵は、
その画家自身が自分の世界での美しいと思うものがどんどん追求されています。
モネの世界なんかはそうじゃないかな~と思います。
2の、画家が自分の外側の世界の物語を追及している絵としては、
ゴッホなんか、そうですね。
自己陶酔の絵は、その画家自身で完結しているので
どんどん絵を描く技術が磨かれて、
官能的世界が広がっていくように思いますが、
一方の
画家が自分以外の世界を追及している場合は、
そのモチーフをとおして、
特に人間の背後にある物語の世界を描きだしているように思います。
それは目には見えない世界ですが、
その画家には見えていて、
ある使命感があるように思います。
また
1の作家はひたすら自分に愛情をそそぎますが、
2の作家は、モチーフ(外的世界)に、愛情を注いでいきます。
例えば、ゴッホは、人間とその生きる世界への興味と眼差しを感じますが、
ゴーギャンの場合は、彼自身のナルシズムを追及しているように思います。
しかし残念なことにゴーギャンは、
自分のナルシズムの世界が叶えられないための
ニヒリズムに陥っているようにも思います。
反対にゴッホはひたすら人々を愛そうとしたように思います。
まあ、かなりの思い込みでもありますが。
さて、では、
ガラス絵の児玉さんの絵は、どうかというと
彼女は2の作家で、ひたすら自分の外の世界である
人間や町や風景を描いています。
自分が素敵だな~と思った町や村や人々を
描いているように思います。
そして皆さんが疑問に思われたであろう、
なぜ、映画は、遠野と児玉さんのガラス絵かというと、
そこに、人々が描かれ、
児玉さんがその人々へ、愛情を注いでいるからです。
自分のナルシズムを満足させるのではなく、
愛情を注いでいるからです。
そして茨木のりこさんも、やはり
2の詩人だと思います。
茨木さんなんかは、もう、
始めから自分のナルシズムを放棄していますからね~。
二人の女性の愛が、どういう風にリンクしていくか、
映画をみてのお楽しみ、
です。


もうすぐ春がくるかな~!
by denshinbashira
| 2019-02-23 07:00
| 遠野の映画撮影日記
|
Comments(0)

