高村智恵子と光太郎、その2、なぜ光太郎は智恵子抄を発表したか。 |
どこから手を付けていけばいいかと思案していると、
頭に浮かんだのが
「高村夫妻は芸術という魔物に襲われた」という言葉が
浮かびました。
江戸文化から維新を経て、
西洋文化が滝のように日本にはいってきました。
そのなかでも、
それまでの古い日本の階級制の中では
考えられない、
西洋画における芸術という概念が入ってきます。
高村光太郎も彼自身アメリカ、イギリス、フランスに留学し、
それまでの日本にはなかった西洋の芸術の
壮烈な洗礼をうけます。
芸術における自由とは何か、
日本の美術界における、
それまでの既成観念を
いかに破棄して、新しい世界を構築するか。
さらにそれを実現するために
古い日本の因習に囚われない生き方とはなにか?
などなど。
彼は留学から帰国して、それまでの日本の美術界へ
挑戦状を見る叩きつきつけるかのように、
「緑の太陽」という論文を書きます。
それは美術界、芸術界に大きな波紋を呼び、
光太郎は新しい芸術の旗手としての活動を
始めます。
その光太郎に惚れ込んだのが
智恵子です。
智恵子もまた、新しい女として
さらに女性画家としての自分を生きようとしますが、
しかし、そこに、大きな背伸びと無理があったように
私は思います。
何もかもが極端で、現実的ではなく、
観念が先行した二人の新しく芸術的生活の隙間というか
ひび割れのなかに
智恵子が落ち込んでいったように
思います。
なぜなら、統合失調症の病気を発症し、
その入院の中で、
つまり、光太郎との生活の緊張から解き放たれて、
智恵子が作った紙絵は、
無理がなく、素朴で、ほほえましいものばかりだからです。
あゝ、精神(脳)の病を得て初めて智恵子さんは
自分らしい世界を、
素直に素朴に生きだしたのだな~と
思います。
病魔を得ることにより、
光太郎との暮らしが破綻してやっと、
無意識に強迫化されていた<芸術的生活>や
<芸術家意識>から解放されて、
彼女はいかにも彼女らしい、それも
少女の頃や、乙女の頃の彼女が
蘇ってきて、
自然に、こころの赴くままの自由でつくりだしたのが
それはほんとうに美しく、優しい、智恵子さんの世界です。
そのことは光太郎もよく理解しており、
以下のように書き残しています。
千数百枚に及ぶ此等の切抜絵は
すべて智恵子の詩であり、
抒情であり、機智であり、
生活記録であり、此世への愛の表明である。
此を私に見せる時の
智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が
忘れられない。
光太郎はゼームス坂病院での智恵子を見るたびに
何を思ったのだろうか。
すくなくとも、それまでの、自分との暮らしの中での
突っ張った智恵子さんではなく、
すっかり子供返りした
素直で愛らしい智恵子さんを見たのではないだろうか。
思います。
それは誰も知りえないことですが・・・。
もしかしたら、
光太郎の中にうっすらと浮かんだ、
身に覚えがある、
智恵子を自分の理想世界に連れ込み
本来の自分と芸術的自分との板挟みの中で苦しむ智恵子の
智恵子の死後発表された「智恵子抄」になったのかもしれません。
ただね、そこにも、私は首を傾げるのですよ。
なぜ、首をかしげるかも含めて
続きを

