高村智恵子と光太郎、その7、智恵子から自立し、智恵子を突き放し、光太郎逝く! |
ほんとうにけなげに頑張ったと
思います。
そして智恵子さんの晩年に作った紙絵には
毒々しい自我はありません。
むしろ優しく、素直な詩情が溢れています。
そこに私は、もしかしたら、
光太郎との生活で、確かに背伸びし、緊張はしたけれど、
しかし一方では、
光太郎のもっている愚直な人間観、
率直で、飾らず、高い知性と清貧の中を生きるという
メッセージが、智恵子さんの中に沁み込んで、
彼女の母親や身うちがもっていた
虚栄的なコンプレックスを、浄化したかもしれません。
そういう意味では
智恵子さんは光太郎と結婚してよかったのかもな~と
思います。
ただ、智恵子さんの中に
一葉やらいてうさんのような強い
自律的な一本の心張棒のようなものがあっかかというと
残念ながら、なかったと思います。
一葉やらいてうさんは、
自分で思想を構築する能力がありましたが、
智恵子さんは、そういう独創性はなかったように思います。
それは油絵の才能に於いても言えたと思います。
もともと智恵子さんは
夢みる少女のロマンティックな世界をもっており、
それがそのままの純度で
紙絵に顕われたかとも
思います。
脳の中の統合が壊れたとき、
壊れたからこそ、
それまでの緊張から解放され、
智恵子さんの中の素朴な感性が翼を取り返し、
羽ばたきはじめたのではないでしょうかね~。
ただ、最後に光太郎には厳しいことを
書きますが、
しかし、光太郎の最後は立派でした。
そのことを書いてこのシリーズを
終えたいと思います。
光太郎はず~っと智恵子に依存し続けました。
自分の共依存の中から抜け出ませんでした。
たしかに智恵子に対して
無理をさせたこと、背伸びをさせたことを詫び、
そして償おうとする光太郎がいます。
だからこそ「智恵子抄」を出版したのでしょう。
でもね、その「智恵子抄」を読んで
私はさらにがっかりしたのです。
※まあ、私ががっかりしようが、
そんなことなど、光太郎さんには
係わりのない事ですが・・・苦笑!
特に自立し、
自分の孤独をひきうけ、
女としての自分の性を生きようとする女性からすると、
あの詩はには、引くしかないです。
※もしよかったら「智恵子抄」をよんでみて
ください。
「智恵子抄」より 高村光太郎
夜の二人
私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降る霙まじりの夜の雨の言つた事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持つてゐます。
私達はすつかり黙つてもう一度雨をきかうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇の枝が窓硝子に爪を立てます。
誰が餓死だの、火あぶりなんぞを望むものですか、
そんなの、言葉上の虚勢にすぎないのに、
言葉が滑りすぎているよ、光太郎!
ほんとに智恵子さんは並外れた覚悟のよう女なのか???
このアジテーションのような言葉が、
智恵子さんの中に刷り込まれていったとしたら,
おそろしいな~と思います。
おそらく高い独立心や冷静な知性をもつ女性なら
こういうマゾヒズムの言葉などには応じないでしょう。
しかし智恵子さんはそうではありませんでした。
すっぽりと光太郎のマインド下にはまり込んでしまいました。
さらに光太郎がしっかり女性と向き合い、
女を幻想化せず、
女の母性に付け入らず、
さらに生身の素朴な女のリアリティをそのまま
愛してほしかったと思いますが、
光太郎には、
無理だったのでしょうかね~。
しかし、さすがに天下の光太郎です。
彼は最後には
わかってきたと思います。
それが十和田湖の智恵子の姿です。
つまり、智恵子は初めから
自分を生きていた。
光太郎のために生きていたのではない、
ということを、
理解してきたのだと
思います。
智恵子さんは、強烈なナルシストであった、ということです。
夢見る乙女としてね。
そして
智恵子が初めから、
光太郎のような思想を構築できるとは
考えにくいです。
智恵子が光太郎の思想や理想や信念に
向き合い、付き合ってくれたのも、
確かに智恵子は光太郎に惚れ込みました。
だからこそ、
献身的でもあり、
光太郎のマインドコントロールに
嵌ったかもしれません。
でもね、
それはあくまでも、
●智恵子が、
自分自身の偽装やコンプレックスを
補うものとして、
光太郎の理想や思想を自分に付け足しただけものであり、
その証拠に
彼女の紙絵は、
●彼女だけで完結しています。
そこには光太郎の入る余地などありません。
女の目でよくよく厳しく智恵子を洞察してみると、
智恵子はいかにも女臭く
彼女は鏡の中の自分を見るように、
いつも自分だけを愛していた。
ナルシストとして、
自分を愛する光太郎を従え、
結婚後は、
閉じられた光太郎との密室生活の中で
自分を賞賛してくれる光太郎の理想を体現する自分に酔い、
彼女が仮想し、幻想化した自分の姿に
満足していたのであり、
だからこそ、
その仮想の姿は、
実家の倒産という、
極めて世俗的なリアリティが突き付けられたとき
脆くも、どうしようもなく無力な自分を(裸の王様の自分を)
露呈してしまいました。
つまり、いくら理想を生きても
現実の問題を、
何一つ解決できない自分を
見せつけられたのです。
現実を足場に持つこともできず、
そこで
逃げ場を作ることもできず、
敗北していきました。
そしてもう、理想を演じる自分では
ついていけなくなりました。
※「原色の女」では書きましたが、
自分の身うちに宛てた手紙などには、
親身に身内を思う、
素朴で普通の女としての智恵子さんが
います。
良い手紙です。
ごく、世間的な女性の姿です。
母親や妹や弟を案じる
統合失調症という病を得てはじめて
彼女の自己抑圧の鎖が解け、
それまで閉じ込められていた
もう一人の智恵子さんがはじけ出てきました。
その姿、すなわち
光太郎との生活の中になかった
素朴な智恵子さんの姿は、
狂気の彼女が
一気に滑り落ちていった深い底にこそ、
いかにも彼女の、
彼女らしい、世界がありました。
そこには光太郎色はかけらもない。
智恵子さんの詩があり、ユーモアがあり、
そしてパワフルな智恵子さんでもあり、
日々の日用の品々を切り絵にする
生活の姿でもありました。
そこには、
光太郎がいうように、智恵子さんの
この世への素朴な愛があります。
まさにそこは
智恵子さんの自律的世界でした。
それは、光太郎の遺作
十和田湖畔の立像であり、
自分とだけ向き合う智恵子さんこそ、
実はいかにも智恵子さんそのままの姿です。
それは光太郎が最後に受け入れざるを得ない、
自分の所有から解放した
智恵子さんのありのままの姿だと
思います。
光太郎が最後に自分の深層の中の、
ほんとうの智恵子の姿を作ったのだと
思います。
自分が愛されたと錯覚していたことや、
そのひとりよがりの自分を捨てて
光太郎氏は智恵子さんを
そのまま彫刻にしたのでしょう。
これこそが、
私は智恵子さんへの鎮魂でもあり、
自分の孤独をいきた智恵子さんへの
何よりの贈り物です。
やっと、智恵子さんとの共依存から抜けて、
自分という孤を生きることを自覚した
光太郎だと思います。
自分が自分の理想の中に連れ込み、
そこで自殺を試み、最後には
精神を病んでしまった妻に対して、
その死後もまだ、依存と甘えと智恵子幻想の中に
いた光太郎に、私は厳しいです。
それは人間の幸せは
究極には自立しかありえないと
私が考えているからです。
もし、男と女が対等というのなら、
「智恵子抄」のあの甘ったるさは
自律した精神を持つ女には、
耐えがたいもの(押し付け)があります。
男の幻想の中をいきる女性なら、
そう思わないかもしれませんが。
まあ、それはそれでいいです。
しかし
その辺の光太郎うかつさ、甘さが、そのまま、
戦争詩を百何篇の書くうかつさになったのではないかと、
思います。
戦争を賛美し、
鼓舞する光太郎の詩を読み
それに影響され、
戦場へ向かう決意を確かにした
大勢の青年たち。
光太郎の戦後の花巻での独居
掘っ立て小屋の中の
寒く、厳しい生活は
光太郎のせめての償いでしょう。
「智恵子抄」の中、
孤独の中で、智恵子の幻をみる光太郎は
潔くありません。
ほんとうに智恵子さんを思うなら、
頭をたれて沈黙しかないのに
饒舌してしまいました。
しかし反対に、
光太郎晩年のことば、
「死んだらしにぎり、自然は際立っている」は
みごとです。
ここには、
死をうけいれ、自分が跡形もなく消える覚悟が
あります。
そういう厳正なる人間の現実と有様を直視してこそ、
芸術家であり、詩人、そして彫刻家、高村光太郎だと
私は思います。
最後には、
全く孤なる自分に気づき、
智恵子から自立し、
智恵子を突き放し
黄泉へと旅だったと
思います。
「十和田湖の裸像に与う」 高村光太郎
銅とスズとの合金が立ってゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立ってゐる。
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪えて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ。
この詩を書き終えて、
死ぬまでの3年間、
光太郎は智恵子に関する詩を
一切書きませんでした。
最後に私は、光太郎を悼みます。
これで智恵子と光太郎のことは終わりです。
私の人生においても、甘えず、依存せず、
自律した自分を生き切るために、
二人の姿を通して
厳しい示唆をもらえたことを感謝します。
昔 図書館で見つけた本と久しぶりに再会させていただきました。
光太郎は、人にあなたは彫刻家か詩人かどちらかと問われると、自身は彫刻家だと明言しています。
彫刻の制作に自身のさまざまな「念」や文学的な思考が入り込むことを嫌っていたそうです。
俗っぽい言い方をすれば、詩作は「ガス抜き」といったところでしょうか。
ならば、智恵子のことも、出版などせず、日記か手帳にとどめて置いた方がよかったのではと思います。
花巻郊外の山口村の小屋で一人暮らしをしていたときの光太郎が サンタの姿で子供たちと一緒に写っている写真が私の好きな1枚です。