「死にたいなら一人で死ぬべき」という発言について、その2。 |
人間の上に神という超越した存在を置き、
その神によって人間は無条件に愛され、
許されている、というドグマの中に人間を置いたことでしょう。
人間は間違いを犯さずには生きれない。
しかしその間違いも神によって許されているよ。
そしてどんな人間も神の前では平等であり、
どんな存在も神がこの世へ送りだしたものである。
だからたとえ間違いを犯しても、
神の前で、それを懺悔し、出直しなさい、と
神がその存在を浄化するのですね。
ドスエフスキーの小説「死の家」では
クリスマスだけは、
極寒のシベリアで生きる囚人たちも
普段はもう、どうしようもない悪党も
乱暴者も博打うちも酒乱までもが、
お行儀よく大人しく収まる。
刑務所の中はかなり自由で、
こういう輩が自分勝手な顔を利かしているんだけど、
クリスマスだけは、皆大人しく、
どんな囚人も、神のみ前では、
敬虔なる自分をとりもどし、
みんな仲良く、イヴを祝う。
神の前では、みんな赤子のように
素直になるんだね。
自分が無条件に愛されるとは、
親や大人からみると
おりこうさんであるとか
容姿が可愛いとか
親のいうことをよく聞くとか
こういう親の心を満足させなくとも、
ただ、その人間がそこにいることを
そのまま受け入れられ、認められ、愛されるということです。
ところが
人間はつい、相手、つまり他者の存在にいろいろ
条件を付けてしまうのですね。
~だったら愛してやる、認めてやるって、いう風にです。
条件を付けられた子供はどんどん偏ってゆき
その子本来の天真な素直さを失ってゆき、
こころがどんどんすさんで、後ろ向きになってゆきます。
ましてや、親に捨てらたり、
厄介者扱いされたり、
自分でも自分という存在を愛せなくなった人間が
心に掃溜めのような闇の世界を築き、
絶望の世界をため込んでいくのは
もう必定なのですね。
どうしたらいいのでしょうかね~。
わたしも分かりません。
ひとつ言えることは
社会全体が成熟し、
そういう神に代わるような思想や哲学が
末端まで行き渡ることです。
成熟した社会では
・許す、ということや
・和解することが
ごく当たり前のようになることです。
さらに
人間は一緒に生きている、という共生観が
行き渡ることかな~。
そういう意味では
文明が進化すればするほど、
人間はどんどん孤絶していきます。
人間と人間の間に機械やロボットが介在して、
人間が直に触れ合わなくても、事が足りてゆくのですから。
人間どうしの共生観が薄らいでゆくのは
必定です。
ちょっと飛躍してすみませんが、
18世紀の産業革命以来ず~っと工業が主流の社会を
突っ走ってきましたが、
それはそれでいいでしょう。
しかしそれと共に
ここらでもう一度農業社会の再生を試みたらどうでしょうか。
というのは
やはり、人間は自然と共に生きることが必要なのです。
こころが傷んだ人は
どんどん地方に行き、
自然栽培の農業を教えてもらったらいいのにな~と
思いますよ。
人間どうしで癒すのには限界があります。
人間は自然の中にいくと、脳波がリラクゼーションになって
ドンドンエネルギーを回復します。
だからね、
自然と協働して生きる生き方を、
もう一度取り戻すことだと、私は思います。
さらにそれが行き過ぎたテクノロジーではなく、
人間の身体を使って協働するという方法で、です。
人間が身体を使って協働してこそ、
そこに連帯が生まれます。
人間の心が退行してゆくのを防ぐには、
働く、ということがとても有効だと
私は考えています。
助け合う、ということが、
本当は人間の原点でもあるからです。
弱小な動物であったからこそ、
人間は助け合い、協働しながら、社会を築いたのですから。
現実はなかなかそうはいきませんが。
ほんとうに人間の社会は難しい。
ただ、他人を非難することより、
人間の弱さを共有する社会であって欲しいと
願います。
人間は強さを共有しだしたら、
そこから狂ってゆきます。
自分も他者も弱く、儚い存在である。
しかし、だからこそ、
許し合い、
補いあい
助けあっていきましょう。
なんだかとりとめなくなっちゃったけど、
スミマセン。