2019年 06月 05日
映画「どこかに美しい村はないか」同じ時代を生きる、鋭い力となって たちあらわれる! |
この映画は遠野を舞台にしていますが、
遠野だけではなく、
日本各地の、地方の再生をも視野にいれた映画です。
先進国の、先進的な病理現象としての、
少子高齢化社会を、どのように乗り越えるか、の
一つの手がかりというか、糸口というか
それをも模索しながらの、映画でもあります。
明治以来の日本は江戸時代の農業国から
世界の近代工業国へと突っ走ってきましたが、
どこかでボタンを掛け違えたと思うのです。
それは多分、40年前の公害が出始め、
薬害や海の汚染がひどくなった頃、
一度めのサインがあったように思います。
その次に
バブルがはじけ、
地方が尻すぼみになる頃に、
二度目のサインがあったにもかかわらず、
日本は政策を間違えたのではないかと
私は思います。
その時
ほんとうは、
農業政策を、
根本からみなおさなければならなかったのでは
ないかな~。
そして今、
消滅危機に地方都市がさらされている現状で、
私は第一次産業の再生こそが、
そのカギとなるのではないかと考えます。
特にに国土の70パーセントが森や林である林業と
農業とをどのように再構成するかが、
地方都市の再生へと繋がると考えます。
その時、従来の慣行的な林業や農業ではなく、
後継者が生活を維持でき、
それが持続していけるような
新しい産業としての農業、林業の政策を打ちだす必要があると
思うのですが。
まあ行政ばかりではなく、
国民の中にそういう自覚が必要なように思いますが・・・・。
今、農業も林業も後継者がいなくなる危機があります。
それは日本にとっては大きな損失であるとともに
今後数年のうちに国としての危機にもなるかもしれないと、
私は思うのです。
農業や林業が荒廃していくことは
つまりは、
日本はその故郷を失い、伝統が消え、
日本人のアイデンティーの足場が消えていくことでもあります。
先進国として、世界最新のテクノジー社会を目指す一方で、
それに突っ走っていかないようにバランスを図る意味で、
これまでのアナログ的な社会、
機械やAIが主役ではなく
人間が主役のアナログ性を
失ってはならないと思うのです。
今年遠野を廻ってみると、
昨年は田植えがされていた田んぼに
今年は水が張られていない所が数カ所ありました。
なにか事情があるのかもしれません。
遠野をロケして廻りながら、
その美しい農村の風景が失われないようにと
祈るばかりです。
そしてそれは
他の地方に対しても同じです。
今回下のチラシを、草刈りの途中で休憩していた
お婆ちゃん達に渡しました。
そしたら、ひとりのお婆ちゃんが
ちらしの「どこかに美しい村はないか」を
声をあげて読んで、
・・・これ、遠野のことだぁ~、と言いました。
それを聞いてお婆ちゃん達は
皆で朗らかに、大笑いしてくれました。
「どこかに美しい村はないか。」
そうです、それは遠野の事ですよ、と
私も言いました。
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
高い鼻に胸でも病んでいるらしい
鋭い力となって たちあらわれる
「六月 茨木のり子」
この村が失われることなく、
むしろ
鋭い力となって再び立ち現れるように
映画をしっかり仕上げていきたいと
思います。

遠野だけではなく、
日本各地の、地方の再生をも視野にいれた映画です。
先進国の、先進的な病理現象としての、
少子高齢化社会を、どのように乗り越えるか、の
一つの手がかりというか、糸口というか
それをも模索しながらの、映画でもあります。
明治以来の日本は江戸時代の農業国から
世界の近代工業国へと突っ走ってきましたが、
どこかでボタンを掛け違えたと思うのです。
それは多分、40年前の公害が出始め、
薬害や海の汚染がひどくなった頃、
一度めのサインがあったように思います。
その次に
バブルがはじけ、
地方が尻すぼみになる頃に、
二度目のサインがあったにもかかわらず、
日本は政策を間違えたのではないかと
私は思います。
その時
ほんとうは、
農業政策を、
根本からみなおさなければならなかったのでは
ないかな~。
そして今、
消滅危機に地方都市がさらされている現状で、
私は第一次産業の再生こそが、
そのカギとなるのではないかと考えます。
特にに国土の70パーセントが森や林である林業と
農業とをどのように再構成するかが、
地方都市の再生へと繋がると考えます。
その時、従来の慣行的な林業や農業ではなく、
後継者が生活を維持でき、
それが持続していけるような
新しい産業としての農業、林業の政策を打ちだす必要があると
思うのですが。
まあ行政ばかりではなく、
国民の中にそういう自覚が必要なように思いますが・・・・。
今、農業も林業も後継者がいなくなる危機があります。
それは日本にとっては大きな損失であるとともに
今後数年のうちに国としての危機にもなるかもしれないと、
私は思うのです。
農業や林業が荒廃していくことは
つまりは、
日本はその故郷を失い、伝統が消え、
日本人のアイデンティーの足場が消えていくことでもあります。
先進国として、世界最新のテクノジー社会を目指す一方で、
それに突っ走っていかないようにバランスを図る意味で、
これまでのアナログ的な社会、
機械やAIが主役ではなく
人間が主役のアナログ性を
失ってはならないと思うのです。
今年遠野を廻ってみると、
昨年は田植えがされていた田んぼに
今年は水が張られていない所が数カ所ありました。
なにか事情があるのかもしれません。
遠野をロケして廻りながら、
その美しい農村の風景が失われないようにと
祈るばかりです。
そしてそれは
他の地方に対しても同じです。
今回下のチラシを、草刈りの途中で休憩していた
お婆ちゃん達に渡しました。
そしたら、ひとりのお婆ちゃんが
ちらしの「どこかに美しい村はないか」を
声をあげて読んで、
・・・これ、遠野のことだぁ~、と言いました。
それを聞いてお婆ちゃん達は
皆で朗らかに、大笑いしてくれました。
「どこかに美しい村はないか。」
そうです、それは遠野の事ですよ、と
私も言いました。
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
高い鼻に胸でも病んでいるらしい
鋭い力となって たちあらわれる
「六月 茨木のり子」
この村が失われることなく、
むしろ
鋭い力となって再び立ち現れるように
映画をしっかり仕上げていきたいと
思います。

祈、地方よ、農業で蘇れ!
by denshinbashira
| 2019-06-05 06:03
| 遠野の映画撮影日記
|
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