映画「どこかに美しい村はないか」 |
~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~
AIテクノロジーの時代が始まる。
同時に
人間が自然と共に働き、
人間の手で生産する技を磨いた時代が終わろうとしている。
遠野の田園の風景は、
人々の営みによってできた美しい風景である。
この美しいものたちが消える時、
私たちはとてつもない大切なものを失うかもしれない。
懐かしい昭和と平成の風景をあえて、脳裡に刻んでおこう。
児玉房子さんのガラス絵と茨木のり子さんの詩には
自然への畏敬と、人間の労働へのオマージュがある。
朝の光の輝きと共に一日が始まり、夕方の労働を終えて、
美味しいビールを片手に食卓を囲む。
かつての美しい村を探してこの映画を贈ります
「どこかに美しい村はないか」
小学生の頃、先生に勧められて、「新日本紀行」を観た事があります。地理への興味と旅心を抱くきっかけになった番組だと思っています。
番組はビデオでなはく、映画と同じフィルムでした。
フィルムの画像は肉眼で見ている景色とは見え方が違 う。
だから、家のドアを開けたら繋がっている世界には
思えない。
なのに、とてもリアル。
土地の人のつぶやきや息吹きも雨風の音も逃さずに撮ら
れている。
テレビカメラ・・ビデオの画面の方が見え方は肉眼に 近いはずなのに、
なぜか作り物っぽく見えてしまう。
当時のテレビはフィルムの番組もビデオの番組も
放送されていました。
小学生の私には それらの違いがなぜか 分からず、 人にも説明できなかった。
これも 脳の世界の不思議でしょうか。
お訊ねの、脳の件についてはわかりませんが、
人間は目でみているのではなく
脳で見ていることは確かです。
能勢監督に聞いたところによると
カメラを通しての映像は
肉眼とはまったく異なるそうです。
例えば空の月にカメラの焦点を合わせると
月以外のものはボヤけてしまいます。
月の下の人家はボヤけしまいます。
ところが肉眼では月もその下の人家も
ぼやけず、鮮明にみえます。
つまり人間の目で見たと同じにするには、
カメラで撮った映像を描加工する必要があると
言うことらしいです。
プロの映像作家はそこまで考えながら撮っているんですね。