映画「どこかに美しい村はないか」草の匂いや 山の鳴る轟音や 風がささやく声が聞こえる! |
子どもの頃の懐かしい風景が走馬灯のように
浮かんできた。
木造建ての家々や
学校の帰り道は、そのショーウインドウをのぞきながら
珍しいものを探して道草をした。
確かに理髪店の前には
必ず赤白の丸い棒がよじれながら上っていたし、
時計屋の奥には主が修理する姿も見えた。
その親父が揃ったように眼鏡をかけていたのも
思いだす。
子どもたちは草原や空き地で、
思い切り遊んでいたし、
夕方になると私は
寂しい気分に襲われた。
今でもその孤独感は
心の中に小さな点のようにあり、
時にそこから感情が滲みだしてくる。
郊外には田んぼや畑が続き
道を歩いていくと、突然
木に囲まれたお屋敷があったり、
荒れた林の中に、
廃墟同然の神社もあり、
子どもの私にとっては
いかにもミステリアスな空気が流れていた。
朔太郎の本を読みながらふと、
今の子供たちはもう、
こういう体験はできないのだろうか、と
思う。
本の中からは、
草の匂いや
山の鳴る轟音や
風がささやく声が聞こえたが、
もしかしたら、
現代の子供達は、
そういう自然との原体験を持つことも
ないのだろうか、と
思った。
例えば
種田山頭火の俳句に読まれた風景や光景は
手に取るように私の頭の中で連続する。
こころがほっと灯のように蘇る。
私は昔を回顧して、感傷に陥っているのではない。
私の神経の中に潜む、
牧歌的で、幻想的な
或る種の実感とその感性こそが
ともすると荒廃する私の神経を
救ってくれているのです。
その体験が疎外されていく時
人間の心は無機化しないのだろうかと。
昨日、能勢監督が来られ、
映画の予告編を見せてくれました。
あまりに素敵なその映像に涙がこぼれました。
近いうちに公開いたしますので、
ぜひ見て下さい。


幼いころに見た 原風景は 誰もが持っていると思います。
それは一生忘れないものだと思います。
大人になるにつれて忘れてしまうと言われていますが、何かに触れることがきっかけで、鮮明に思い出します。
私も 賢治の詩に 社会人になってから再会し、とりこになりました。
かつて、街も建物も木造でしたから、その頃の人々の営みの「匂い」というものも そこには残っていました。
バイクで走っているときに、バイパスの脇に かつての本道だった集落の屋根の並びを見ただけで 私は私の何かをすぐに思い出して、Uターンをして 寄り道をします。
そうやって 観光ガイドには載っていない 自分だけの風景 たたずまいをいくつも見つけ、「再会」しています。
だから バイクの旅は いつも ひとり。」
自身の子供も、機会があるたびにそのような場所を一緒に歩かせます。親から見ると 素通りしているように見えますが、何かが心に残ると信じたいです。
私が2,3際のころ まだ木造だった祖父母の家に行った時の断片的な記憶も、トイレの便器の色まで覚えていたことなど、私の親は想像だにしていませんでしたから(笑)。
久しぶりに 一人で 映画館に行こうかと おもっています。

