こころが打ち震えるような感触のそれは何か、それを思想や哲学として、 もう一度、人間の傍においておかないと、だめじゃないかな~ |
息苦しくなりました。
場面展開が目まぐるしいのです。
それは、いかにもデジタル的な速さであり、
物語の連続性を考えている暇もなく
次の場面へと移ってしまいます。
脳の中は常に刻々とデジタルに変化していますが、
体は、違うのです。
体は少しずつしか変われません。
頭の中は忙しく、明滅するのですが、
体はゆっくり生きているのです。
つまり
体は現状を維持しながら、
体温や脈拍や血圧、そして内蔵の働きは
ゆっくりと変化します。
それらが急変すると体はパニックになり、
病気になります。
これからデジタルな時代にはいるとしたら、
体にはかなりの負荷がかかるのではないかと思います。
頭がゆっくりと、そして静かになるには、
神経がリラックスし、そして深い呼吸の中の集中が必要です。
うかうかとデジタル社会に追いまくられていると。
自分の知らないうちに、脳と体との齟齬がおき、
ストレスが強くなり、
生きるのがつらくなる可能性もあるな~と
思います。
私は朝眼が覚めると、じ~っと自分の思惟の中に
沈むこみます。
ノートに万年筆で今の心境を書き込みながら、
自分の感情を整理していきます。
※なぜ万年筆かというと、万年筆の書き心地の良さと、
インクの青い色がとても神経に心地良いのです。
最近とみに思うのは、
今こそ、哲学や、思想が必要だな~と
言うことです。
古典から積み重ねられてきた
人間とはいかなるものか、という哲学や思想を
もう一度傍においておかねば、と思うのです。
行き過ぎた文明に巻き込まれて
目の前のことがあまりにも、
せわしく、忙しく行く過ぎて行く今こそ、
人間にとって何が大事なのかを
考えておかないと、もう自分がどんどんすり減っていく。
人間がもっとも大事にしなければならない根源的なことは何か。
目には見えない、私達の存在の背後にある大事なもの。
言葉にはできないが、
こころが打ち震えるような感触のそれは何か、
それはいつ、どんな時に起きるのか、等々を
思想や哲学として、
もう一度、人間の傍においておかないと、だめじゃないかな~と
思うのです。
人間の体験知や経験知が機械に代理されて減っていくと、
どうしても、ものごとや、起きる現象に対して、
人間の感情は短絡的になります。
※経験の幅がないので、自分の憶測や、
推測ばかりに頼るようになるのです。
メディアやSNSで得た情報、
それがバーチャルな情報であるにも関わらず、
疑似体験しただけで、「わかったつもり」になってしまう人間が増える時、
まさにソクラテスの「無知の知」の問答が必要になります。
ほんとうに知っているの、ほんとうにわかっているの?
とです。
プラトンの「イデア」のように
人間の根源的な、魂ともいえるもの、それは何かと。
考察し、哲学し、思想する。
そういうことが失われないようにと、私は願います。
そして、できたら足を止めて
ゆっくりとアナログ(ゆっくりとした連続性)に生きることの大切さも
取り戻したいと、思います。
体を労わり、急がない、
そういう暮らしが、
失われませんように!
