映画「山懐に抱かれて」を見てきました、が・・・? |
いい映画でした。
酪農の原点に戻り、
山地を切り拓いた牧場で、自然の草だけを食べるという
最も牛の自然性に基づいた酪農をこころざした、
吉塚公雄さんとその家族の奮闘の25年を描いた作品です。
牛は搾乳以外は牧草地に放たれ、
出産すら牛自身がやるといった、
徹底した放牧の酪農です。
私もその牛乳を飲ませて頂きましたが、
もうこれまで飲んだことのない滑らかな濃くと甘さの
美味しい、美味しい牛乳でした。
ただ自然放牧の牛の乳は、配合飼料などを食べている牛に比べ
乳が三分の一しか出ません。
畢竟、現代の経済から言うと、生産性が極めて低いのです。
※しかし、それは逆に、生産性を高めるために、牛の自然性が
歪められており、その不自然な牛乳を私たちは飲んでいるということです。
当然吉塚さん一家の経済は低収入であり、
借金をしながらの極貧の生活なのです。
※しかし今は山地酪農の貴重な牛乳として
ブランド商品となっています。
しかし、
志を貫くお父さん(公雄)の元に、
お母さん(登志子)さんはじめ家族は懸命に奮闘して生きていきます。
その25年の記録を映画にしたもので、
それはそれでほんとうに素敵なのですが・・・・・。
山地酪農こそ、
衰退の一方を遂げる日本の酪農の救世主なのであり、
これからの、AIテクノロジー時代に起きる負荷の状況を乗り越えるための
大切な大切な先駆的酪農の姿なのであり
大きなメッセージとしてあります。
しかし、
せっかく未来への大切なメッセージがあるにもかかわらず、
映画はそこをすらっと通り抜かしてしまいました。
家族のヒューマン物語になってしまっています。
ホントに残念です。
なぜそうなるかは
残念ながら映画の作りての意識がもう古いのではないかと
思います。
現代という時代が抱えている問題にたいする
視点があまりにも鈍いのです。
それは、ドキュメンタリー映画という分野全体がもしかしたら
古い意識の中にあるからかもしれません、わかりませんが・・・。
私が見た日は客のほとんどがお婆さんで、
お爺さんがひとりと
中高年の男性が一人、というようで
若者はうちのアシスタントのトッテイーだけでした。
別の日は若者がたくさん見に来たかもしれませんが、
しかし、もしかしたら、
若者はこの映画を見たいとは思わないかもしれません。
今映画を撮っている私への厳しい警告も兼ねて、
こんないい映画のどこが古く、問題かを
書いていきます。
それは今の若者がどういう窮地に陥っていかを
理解していただけることにもなるかと
思います。
ちょっと長くなるので、数回に分けて書きます。
1、なぜ予告編の中にドロドロをぶち込むの・・・か・・・。
実はこの映画の予告編を見たとき、
なんだかお金のことで家族が言い合いをしているシーンがあり
そういうドロドロの映画は見たくないな~と思ったのですが、
本編では、それは全く違う話の流れの一シーンでありました。
これは予告編を作った人の意識に問題があります。
つまりそういうドロドロの家族の葛藤が、
ドキュメンタリー映画では
ヒューマンドラマのシーンとして良いと
思い込んでいるからではないでしょうか。
しかし現代は家族神話がもう崩壊しつつあります。
両親の不和や離婚、幼児虐待など、
若者は、
自分達の未来に絶望しています。
※このことは大人たちが考えても同じことが
言えるでしょ。
彼にとって現実はあまりにも解決不能であり、
その反動として、
彼らは時代の軽薄さの中に身を置いていないと、
辛すぎるという時代だからです。
現代の若者は
デジタル機器を使ってゲームやアニメのバーチャル世界、
三次元漫画の妄想でしか夢も希望もみられない、という
殺伐な中をいきています。
そういうバーチャルな世界や妄想世界で生きると
感情がドンドン思いこみに短絡していきます。
※先般の京都アニメ制作会社の放火も
もしかしたら、思い込みに感情を短絡させたことが
動機になったかもしれません。
※なぜそうなったかはオイオイ書いていきます。
どう生きたらいいかわからない。
さらに経済優先の社会の中で、実際におきているのは
格差と若い層の貧困です。
そういう現実を生きている若者にとって
若い頃から孤軍奮闘で山地(やまち)酪農をやりぬいてきたお父さんの
山地酪農こそが未来の酪農を救う、という確信に満ちた生き方とこころざしは
きっと彼らの胸を打ち、何らかの温度を与えると思われるのに、
その重要な言葉を、
父親と長男の葛藤ばかりにシフトを置いてしまい
すら―っと通り過ぎさせている。
見ている観客はなぜ、<山地酪農>が未来の酪農の救いになるのかを
もっと詳しく父親から聞きたいのに。
それは単に酪農だけにとどまらず、
他の分野や生き方としても
大きなヒントやサジェスチョンになるのに。
それを深堀せずにスッと通り過ぎるそこには、
作り手側の時代に対する危機意識の低さや感性の鈍さが
あるのかもしれないと私は思うのですが。
予告編にあった、
お金のことで言い合いをしているシーンも
実は
お金が問題ではなく、
お父さんの山地酪農のこころざしを
若い子供たちがなかな了承し得ない家族の現状であり、
※つまりお父さんのこころざしの中に連れ込まれた家族には
それぞれの胸の中に彼ら自身の言いたいことや思いが
沢山あるでしょうし、それはその通りに理解するのですが、
それはそれでいいのですが、
山地酪農では、搾乳以外、牛は外の牧場で過ごします。
ある雪の激しい日に、長男が牛を牛舎にいれて保護しようとしますが、
お父さんが頑としてそれを許しません。
長男は泣き、自分の主意を父親にいうのですが、
父親の言う通り、雪の中に牛を戻します。
ここでも肝心なことには触れず、
親子の葛藤の場面にしてしまっています。
観客の興味はなぜ父親がこんなに頑固に牛を牛舎に入れないかの
その肝心なことを伝えるシーンはないのです。
つまり映画のエピソードがことごとく
家族愛や家族のヒューマンドラマにシフトが置かれ、
吉塚公雄さんの先駆的な思想とその実践が持つ
という視点が抜けているのです。
その視点があれば、
今の若者達を囲い込んでいるAI、デジタル時代にのアンチテーゼとして
自然と共にアナログに生きる、AIテクノロジーからもっとも遠い
山地酪農のなかにこそ、
その答えやヒントやひらめきがあり
さらにそこには新しい経済の種もあります。
それをどうして描かないのか・・・・。
「ヒューマンドラマ」という思考の枠から
抜け出られていないのかもしれません。
長くなりましたから、今日はここまで、
次回はなぜ若者の心が砂漠化しているかを
書きます。