京都アニメ制作会社放火犯の後ろに広がる時代の闇、その1 |
そこにはいつも週刊誌が数冊おいてあり、
普段テレビも新聞もろくすっぽ見ない私は
待っている間に週刊誌を見ながら、
世の中で起きていることを教えてもらいます。
今回も30分ほど待つ間に週刊誌を、特に
京都でおきたアニメーション会社の放火犯についての記事を
読みました。
なるほど、彼の生い立ちをみると、暗く不幸な事ばかりです。
そこからくる強烈な自己ディスカウントと怨念が、
怒りや絶望と短絡し、被害者意識を増幅、膨張させたのであろうということは
手に取るようにわかりました。
その記事を読みながら、彼のその個人的な背景とは別の背景、
つまり、この突出した犯罪行為の背後に薄く,濃く見え隠れしている、
社会や時代の背景についても、
私は嘆息せざるをえませんでした。
昨今の凶悪な犯罪、特に無差別に人を殺傷する犯罪の犯人たちは
なぜか40代が多く、そこにも、時代の闇が潜在的にあるのではないかと
思います。
彼らを擁護するつもりは毛ほどもありませんが、
すこしずつ何が問題であるのか、
さらにそこからどうすればいいのかを探して
書いてみたいと思います。
皆さんはどうでしょうか?
私はあのバブルがはじけて以来、ずっとわけのわからない閉塞感から
抜け出られません。
まあ、それなりに小さな希望を持ちながら生きてはいるのですが、
しかし、今もそしてこれからも、未来に希望があるかといえば、
正直、不安にかられるほうが大きいです。
成長経済の幻想が,まさに幻想としてバブルがはじけて以来、
本当はちゃんと直視しなければならない、
金権優先の世界金融経済の破綻や、
行き過ぎた文明による環境破壊の問題や原発の問題や、
さらに、社会が無視し続けている人間疎外の問題などを
放置し続けるその底に、
人間が壊れていく、という恐ろしい現象がある、ということです。
人間が壊れてゆく、というのは、
人間が人間たりえるその<理性>が劣化し、壊れてゆくということです。
さらにこれからの人工知能、デジタル社会においては、
人間の体験知や経験知が、人工知能の機械に奪われる中、
人間の洞察力、考察力や、思考力、そして
感情と理性を統合してゆく脳の機能の衰えが、
進行していくかもしれません。
18世紀、ジャンジャックルソーの書いた「エミール」では
エミールは13歳に成長するまで、本を与えられませんでした。
それは、人間がその感覚機能を通して体験し、経験した後に
知識を与えることで、
経験や体験が知識によって深化して認識されるということを
ルソーがわかっていたからです。
現代はその逆ですね。
知識、情報が先に脳の中に先入し、
体験も経験もないままの仮想として認識されてしまいます。
今の30代、40代の若者たちのもてあそぶ<妄想>が過剰に膨張する文化は
ほんとうは生物として脳と体のバランスをとらなければならないのに
脳世界ばかりへとシフトしていきます。
つまり実体験や実感のないまま、その妄想に人間が侵されてしまうのです。
実体験や実感を伴わない妄想、
経験値という知恵が伴わない妄想は、
やすやすとその人間の主観的自我世界を乗っ取っていきます。
つまり、やすやすと妄想が、
あたかも実世界のような思い込みになってしまうのです。
経験や体験で豊かになり、
人間や社会の多様性を理解できれば、
自分の書いたものが、そのままだれかに盗用されるとか、が
そうそうはあり得ないということや
※自分が思いつくことは、他人も思いつくかもしれないのですが、
そういうことを理解できず、自分を過大に評価してしまうのです。
採用されないことに対する、世の中の事情を理解し、
寛容さやあきらめも受け入れることができますが、
経験値や体験知が少なく、
理性の働きとしての客観的世界を実認識できない人間は、
逆に自我の感情、特に負の感情が、
容易に被害者意識へと短絡していくのですね。
そしてその背後にあるのが、
希望がない、未来への発露をもてない、若者たちの現実でしょう。
経験値や体験知が少ない上に情報ばかりがあふれてしまうと、
脳の機能は劣化し、軽薄な認識ばかりに、陥ってしまいます。
料理をしなくても食べらるし、
スイッチを押せば、なんでも手軽に叶うような文明社会では、
人間はどんどん軽薄にならざるを得ない。
軽薄になるということも、一つの苦しみです。
自分に閉じこもり、自己防衛ばかりをする若者も
たくさんいます。
今日はここまでにしますが、
私の眼には、
深刻な社会の状況として、
凶悪な犯罪の後ろに、濃く薄く見えるそれは
●誰の後ろにもある、時代の病理として
ますます息苦しく人間を追い詰めていくでしょう。
本当は不安なことなど書きたくないのですが、
何がダメで何をしなければならないかを
しっかりと肝をすえて、目を据えて、
直視し、書いていきましょう。