2019年 08月 09日
京都アニメ制作会社放火犯の後ろに広がる時代の闇、その2、妄想をもてあそんではいけない! |
現実に希望がもてなくなった若者たちの中に流行りだしたのが妄想です。
※妄想とは本来仮想が病理な域にはいったものです。
人間は常に脳で仮想しながら生きています。
それは生命の危機や危険を予想する危機管理としてはとても有効です。
しかし仮想しすぎるとそれが妄想としてふくらみ、
その妄想が独り歩きを始めると、今度はその人間の人格までが
妄想に乗っ取られます。
・もしかしたら・・・かもしれない・・・が
↓
・多分・・・に違いない・・・へと変わり
↓
・きっと・・・だ・・・という風に
妄想がどんどん掘られ、進化(深化)してゆきながら、
あたかも妄想が、真実や現実であるかのような錯覚に陥るのです。
※未経験、未熟な人間ほど、思い込みの妄想を膨らませます。
京都アニメの放火犯も、もしかしたら、
そういう被害妄想の中に陥ったかもしれません。
真相はまだまだ分かりませんが。
私が知っているある若者は、両親の不和や離婚の中、
人間に対する親愛がどんどん冷めてゆき、
人間に対する信頼も薄らぎ、
さらに就職氷河期における就活の失敗などで、
どんどん心がすさんでいきました。
彼の前には、
●どう生きたらいいのかのお手本になる大人がひとりもいません。
※お手本になる人間に出会うには、広い世界へでてゆき、
そこで様々な人と出会うことです。
どいつも、こいつも、もううんざりするばかりの人間に囲まれる中、
彼の中には人間や社会に対する敵意がうまれ、
その敵意の中にいるときだけは、なぜか心が充実する。
※つまり彼の中では、敵意だけは<実感>として息吹くのです。
もう人間と付き合うのに嫌気がさし、
なにもかもが面倒になり、
そういう中で引きこもりながら、
アルバイトのほかは、漫画やゲームの中に没頭し、
ほとんど親と数人の人間以外との交渉以外は
他の人間と交わることを閉じてしまいました。
漫画やゲームが悪いということではありません。
しかし、それはあくまでも、バーチャルな仮想の世界です。
それはあくまでも、現実を生きる人間にとって、
生きるしんどさや疲れなどをしのぎ、
心の掃除をする、遊びという
●余儀の世界です。脇の世界なのです。
そしてそれは、人間の仮想やイメージが作り出す、
●狭い、人工的な世界でもあるのです。
しかしそれが脳の中の本流として、脳を乗っ取ると、
あたかも、それが現実であるかのような錯覚に陥り、
そここそが理想のようになってしまいます。
すると、
もう現実は、薄汚れた、そして夢のない、
つまりその人間の心の喚起がおきない世界になってしまうのです。
心の喚起が起きない、とは
自分の中での意欲やエネルギーが起きてこないことです。
妄想世界、バーチャルコミュニケーションの世界にはまり込んでしまうと、
そこでは、エネルギーや意欲がおきるけど、
ほんとうの現実フィールドで、たくましく生き抜いていく、
人間本来の生命力が、疎外されてしまうのです。
経験や体験を積み、さらに知識を得ながら、
生きる実感を味わいながら、
生き生きとした臨場世界をいきるのではなく、
常に
脳が先回りをして仮想し、
シュミレーションばかりして、自己防衛する人間に
なってしまうのです。
現実を生きる気迫や勇気をなくし、
傍観者として、いわば、こずるく生きようと
してしまうのですね。
また
人間が持つ敵意や憎しみは、
それを緩和して、薄めていくには、
人間が持つ、親愛や、親切や、優しさや、愛情に出会うことで、
それを薄めていくのです。
人間は人間に出会いながらでしか、
憎しみや敵意をうすめていく、
あるいは、それを放棄していくことができないのです。
だから安易に絶望せず、失望せず、
様々な人間と出会うことはもう、人間にとっての必定なのですが、
残念なことに、文明の進化は、機械や人工物があれば、
他者と交わらないでも生きていけるようになりました。
人間が人間によって満たされなくとも
バーチャルな仮想世界で、自分の心の欠損や欠落を満たすことができる。
文明の進化は、
人間は他者と出会いながら、時に失望したり、失敗したり、挫折しながらも
自己世界が満たされ、豊かに成熟していくという
そういう出会いすらも
奪い取ってしまったと、私は思います。
※以前かきましたが、人間の創造性や才能は
失敗や挫折を乗り越えていく中でこそ、
ほんものになり、磨かれていくのです。
アニメや漫画やゲームは、決して悪いものではありません。
しかしそれはあくまでも、人生の余儀の世界であり、
バーチャルな世界はあくまでも仮想現実であり、
実感をともなわない、観念世界です。
高度経済成長期の右肩上がりの経済は、もう
夢のようになってしまいました。
それなのに、大人たちはまだ、経済の成長が幸福につながるかのような
幻想を捨てきれません。
※もしかしたら、それは大人だけの幻想かもしれず、
若者たちはもう、とっくにそれから覚めているのかもしれません。
さらに政治が現実を解決できないことを
若者は知っており、そこにもバカバカしい茶番をみるしかありません。
そういうことすらに気づかず、
汚れた茶番ばかりの政治をやっている大人たちには
もううんざりなのでしょう。
何もかもがウザイ、そして
人生の中に希望や夢をみいだせない、日本の若者たち。
夢や希望は、仮想世界にはありますが、
そこに何かの確実な手がかりや、ビジョンがない、
それは泡のようなはかないものです。
ところがです。ところがですね、
●夢や希望ということについても、
なぜ、夢や希望を人間が抱くかというその本来の機能を、
脳の機能の観点からみると、それは、
なんの根拠もない単なる仮想ではなく、
実は人間の脳の中の本人は意識していない無意識の中で
●現実の連続性の続きの先に、うっすら見えるものが、
夢や希望なのですよ。
人間は自分の脳の中にあるものを仮想するのですから。
荒唐無稽に夢や希望があるのではありません。
戦後の文明史をたどっていくと、
華々しい文明の進化の裏で、
人間は何かのボタンを掛け違い、
なにか大切なものを見失ったかな~と
私は思います。
その大切なものとは何か・・・・?
次回一緒に考えましょう。

※妄想とは本来仮想が病理な域にはいったものです。
人間は常に脳で仮想しながら生きています。
それは生命の危機や危険を予想する危機管理としてはとても有効です。
しかし仮想しすぎるとそれが妄想としてふくらみ、
その妄想が独り歩きを始めると、今度はその人間の人格までが
妄想に乗っ取られます。
・もしかしたら・・・かもしれない・・・が
↓
・多分・・・に違いない・・・へと変わり
↓
・きっと・・・だ・・・という風に
妄想がどんどん掘られ、進化(深化)してゆきながら、
あたかも妄想が、真実や現実であるかのような錯覚に陥るのです。
※未経験、未熟な人間ほど、思い込みの妄想を膨らませます。
京都アニメの放火犯も、もしかしたら、
そういう被害妄想の中に陥ったかもしれません。
真相はまだまだ分かりませんが。
私が知っているある若者は、両親の不和や離婚の中、
人間に対する親愛がどんどん冷めてゆき、
人間に対する信頼も薄らぎ、
さらに就職氷河期における就活の失敗などで、
どんどん心がすさんでいきました。
彼の前には、
●どう生きたらいいのかのお手本になる大人がひとりもいません。
※お手本になる人間に出会うには、広い世界へでてゆき、
そこで様々な人と出会うことです。
どいつも、こいつも、もううんざりするばかりの人間に囲まれる中、
彼の中には人間や社会に対する敵意がうまれ、
その敵意の中にいるときだけは、なぜか心が充実する。
※つまり彼の中では、敵意だけは<実感>として息吹くのです。
もう人間と付き合うのに嫌気がさし、
なにもかもが面倒になり、
そういう中で引きこもりながら、
アルバイトのほかは、漫画やゲームの中に没頭し、
ほとんど親と数人の人間以外との交渉以外は
他の人間と交わることを閉じてしまいました。
漫画やゲームが悪いということではありません。
しかし、それはあくまでも、バーチャルな仮想の世界です。
それはあくまでも、現実を生きる人間にとって、
生きるしんどさや疲れなどをしのぎ、
心の掃除をする、遊びという
●余儀の世界です。脇の世界なのです。
そしてそれは、人間の仮想やイメージが作り出す、
●狭い、人工的な世界でもあるのです。
しかしそれが脳の中の本流として、脳を乗っ取ると、
あたかも、それが現実であるかのような錯覚に陥り、
そここそが理想のようになってしまいます。
すると、
もう現実は、薄汚れた、そして夢のない、
つまりその人間の心の喚起がおきない世界になってしまうのです。
心の喚起が起きない、とは
自分の中での意欲やエネルギーが起きてこないことです。
妄想世界、バーチャルコミュニケーションの世界にはまり込んでしまうと、
そこでは、エネルギーや意欲がおきるけど、
ほんとうの現実フィールドで、たくましく生き抜いていく、
人間本来の生命力が、疎外されてしまうのです。
経験や体験を積み、さらに知識を得ながら、
生きる実感を味わいながら、
生き生きとした臨場世界をいきるのではなく、
常に
脳が先回りをして仮想し、
シュミレーションばかりして、自己防衛する人間に
なってしまうのです。
現実を生きる気迫や勇気をなくし、
傍観者として、いわば、こずるく生きようと
してしまうのですね。
また
人間が持つ敵意や憎しみは、
それを緩和して、薄めていくには、
人間が持つ、親愛や、親切や、優しさや、愛情に出会うことで、
それを薄めていくのです。
人間は人間に出会いながらでしか、
憎しみや敵意をうすめていく、
あるいは、それを放棄していくことができないのです。
だから安易に絶望せず、失望せず、
様々な人間と出会うことはもう、人間にとっての必定なのですが、
残念なことに、文明の進化は、機械や人工物があれば、
他者と交わらないでも生きていけるようになりました。
人間が人間によって満たされなくとも
バーチャルな仮想世界で、自分の心の欠損や欠落を満たすことができる。
文明の進化は、
人間は他者と出会いながら、時に失望したり、失敗したり、挫折しながらも
自己世界が満たされ、豊かに成熟していくという
そういう出会いすらも
奪い取ってしまったと、私は思います。
※以前かきましたが、人間の創造性や才能は
失敗や挫折を乗り越えていく中でこそ、
ほんものになり、磨かれていくのです。
アニメや漫画やゲームは、決して悪いものではありません。
しかしそれはあくまでも、人生の余儀の世界であり、
バーチャルな世界はあくまでも仮想現実であり、
実感をともなわない、観念世界です。
高度経済成長期の右肩上がりの経済は、もう
夢のようになってしまいました。
それなのに、大人たちはまだ、経済の成長が幸福につながるかのような
幻想を捨てきれません。
※もしかしたら、それは大人だけの幻想かもしれず、
若者たちはもう、とっくにそれから覚めているのかもしれません。
さらに政治が現実を解決できないことを
若者は知っており、そこにもバカバカしい茶番をみるしかありません。
そういうことすらに気づかず、
汚れた茶番ばかりの政治をやっている大人たちには
もううんざりなのでしょう。
何もかもがウザイ、そして
人生の中に希望や夢をみいだせない、日本の若者たち。
夢や希望は、仮想世界にはありますが、
そこに何かの確実な手がかりや、ビジョンがない、
それは泡のようなはかないものです。
ところがです。ところがですね、
●夢や希望ということについても、
なぜ、夢や希望を人間が抱くかというその本来の機能を、
脳の機能の観点からみると、それは、
なんの根拠もない単なる仮想ではなく、
実は人間の脳の中の本人は意識していない無意識の中で
●現実の連続性の続きの先に、うっすら見えるものが、
夢や希望なのですよ。
※だから、その夢や希望を辛抱強く追及していくと、それが次第に現実化してゆくのです。
人間は自分の脳の中にあるものを仮想するのですから。
荒唐無稽に夢や希望があるのではありません。
※だからこそ、
仮想をもてあそんで、妄想にしてはいけないのです。
戦後の文明史をたどっていくと、
華々しい文明の進化の裏で、
人間は何かのボタンを掛け違い、
なにか大切なものを見失ったかな~と
私は思います。
その大切なものとは何か・・・・?
次回一緒に考えましょう。

朝咲く朝顔は、いつもすがすがしい一回性を咲いている。
同じように、人間もいつも脳の一回性を生きているのですよ。
by denshinbashira
| 2019-08-09 06:20
| 遠野の映画撮影日記
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