京都アニメ制作会社放火犯の後ろに広がる時代の闇、その3、手足を使い、体を使って、具体的な何かを生産する(作ること) |
見失った大切なものとはなにか?
それを書き始める前に前にもう少し仮想現実について
書いてみます。
京都アニメ制作会社放火犯がなぜ、アニメ会社に放火したか?
そこに、なにか時代が抱える闇が象徴されているようにも
思えます。
つまり日本がすっぽりとはまり込んでしまった
テレビや漫画やゲームやアニメのバーチャル世界と現実の混同が、
もはやある限界領域に達してきたのではないでしょうかね~。
そこを世の中人々が,単なる犯罪として見過ごしてしまうと、
もちろんプロの漫画家さんやアニメ作家やゲーム作家は
しかしなぜか日本のたくさんの若者がそれを夢見るという現象には
現実逃避という深層心理の蔓延もあるのではないかと
思います。
それほど日本の現実は彼らにとって夢がないのかもしれませんが。
つまり
人間が生きる、という上において
仮想世界が、現実を乗っ取っていっている、という
きわめて深刻な病理世界がもう日本では、
危険水域まで達しているということではないかと、
私は思います。
ただ、こんな風に分析をしているのは、世界中で私だけかもしれませんが、
それはカウンセリングを通して見えてきた若者の
深刻な世界でもあります。
そのうえにさらに人工知能、デジタル世界が展開されるとなると
どうなるのかね~??
さて、ボタンを掛け違い、見失っている大切なものはなにか?
まず、
人間は<生物・いきもの>です。
生々しく生きる<動物>です。
※脳の中には動物時代の名残の部位が今も残っており、
人間の感情を支配をしています。
人間は、頭(脳)というデジタル機能をもち
体という生物機能(アナログ機能)をもち、
その二つがバランスを保ちながら、生命を保全しているのです。
生物としての体は、老いて生命力が枯渇すると死が訪れます。
脳は体の死とともに、そのスイッチが切れて終わります。
ところが文明の進化は脳世界に偏りながら、
展開していっています。
さらには
脳の代行機能の人工知能が世の中を制してゆく。
人工知能世界になれば、単純なことは人工知能に任せて
人間はもっと創造的なことや有意義なことにいそしめばいい、という人もいます。
ほんとうにそうかな~??
脳科学者の中には、脳に電極を植えて、コントロールしようという動きさえあります。
※アメリカでは、鬱病患者の脳を手術して、
電極を埋める治療しようという動きもあります。
このことなどはいかにもアメリカらしいですが。
ものすごい短絡だと私は思いますが、どうなるんだろう・・?
鬱も自然の中で癒されることや
脳の思い込み(仮想)のシュミレーションを取り除き
ストレスをすくなくすることでも
ずいぶん楽になります。
私のおすすめは、朝、夜が明けたばかりの中を
毎日散歩することです。
以前にもかきましたが、
人間が働くということは、
単に経済活動のためや、生産性のためではなく、
脳の機能として
その能力が開発されることでもあるのです。
最初はゼロ地点からはじまったそれが
生きることや労働の中の
ある必然性にもとづいて、
能力がどんどん開発される。
能力が開発されるとは
脳の認識世界が広がりや幅をもって、
多様な認識を獲得するということです。
生きることも、労働も、楽しいことばかりではなく、
時につらく、厳しく、厄介ですが、
しかし、そのつらく、厳しく、厄介なことが
乗り越えられるごとに、その人間の能力が上がり、
新しい認識の中を生きようとします。
つまり仮想や妄想の空間で、生きるのではなく、
現実の空間やフィールドの中で人間と、
さらに自然と繋がりながら、
手足を使い、体を使って、具体的な何かを生産する(作ること)は
人間の脳にとっても体にとっても
とても重要なことなのです。
ところがテクノロジーの発達と進化は、
確かに利便で安全で、重労働からは解放されたもの、
逆に、仮想空間の文化(アニメや漫画やゲームの文化)が
特に若者世代をを制してしまいました。
それはほんとうは、余儀や余暇の楽しみであるにもかかわらず、
いつの間にか現実との混同が進み、
むしろその仮想空間の中でこそ、夢や希望があるような錯覚が
人間の脳世界(観念の世界)をも支配し始めてきたのではないかと
私は思います。
私の出会ったある若者は
プロの漫画家になることが彼の希望でした。
すなわち、彼は、
現実世界では自分を生かせないが、
仮想現実の漫画世界では自分を生かせるのではないか、という
錯覚をもったのです。
だからこそ、ひきこもりながら、ずっと漫画を書き続けました。
しかし、それは実に10年間を、その仮想現実で費やしても
夢はかないませんでした。
前回も書きましたが、
仮想現実の上にたてた夢は、
あくまでも現実性を欠いているものですから
蜃気楼のようなものなのです。
彼はその仮想現実の中ですらもがき、
仮想現実でさえも自分を生かせない恨みは
そもそも自分を生かせない(彼からすれば、自分をうけいれない)現実社会に
さらに憎悪の眼を向けることになってしまいました。
憎悪の眼を向けることで、胸がスッとするという、倒錯したエクスタシーで
かろうじて、自分を維持していました。
※こういう風に自分をこじらせている若者がかなりたくさんいると思います。
断っておきますが、私は漫画やアニメやゲームを否定するのではありません。
私はこれ以上彼をそのままにしてはおけず、
かなり強引に彼をその穴倉から引き出し、
現実世界へと連れ戻しました。
体を使って働くこと。
漫画を描いていたことのテクニックを使って
実用的な生産をすること(チラシやポスターや、雑誌の編集、デザインの制作)
おかげ様でやっと彼も、
仮想空間で生きる自分から脱出することを、
始動し始めました。
人間の社会はそもそも厄介なもので、常に
人間関係は小競り合いをはらんでいます。
しかし、そこにこそ、意味があるのですよ。
そういう厄介なものをかいくぐりながらこそ
脳が複雑な回路を獲得していきます。
複雑な回路とは人間の多様性や物事の多事性を認識し、
適応していくという回路です。
いわば<知恵>ですかね~・・・・笑!
そしてもうひとつ大事なのが、
体の自然性です。
生物としての体の特徴は
自然と共に生きている、ということです。
例えば、なぜ、こうも日本では犬猫はじめ、
ペットブームがあるかというと
そこには、てっとりばやい自然性があるからです。
自分の自然性がどんどん失われる一方で、
動物の自然性は、人間を癒したり、ユーモアを引き出したり、
また自分の自然の愛情を注ぎこめるからです。
つまり人間は無意識のうちに動物で
自分の自然性を担保しているのですね。
こう考えてみるとますます人間そのものの自然性を
私たちは取り戻さなければならないと
思います。
自然性とは、ストレスなく、自然体で在る自分です。
自分の中に沸き起こる自然な思いや、感情や、行為をこそ、
大切にするということです。
人工物に囲まれて生活するのではなく、
四季折々の自然を感じながら、自然とともにいきることです。
また、そもそも人間は自然の一部の<いきもの>なのですから、
だからこそ、人間は自然に包まれると癒されるのです。
18世紀からの工業革命、
自然をコントロールしようとした文明はまさに今
自然からの反撃を受けています。
温暖化もそうですし、異常気象もそうですし、
エネルギー問題も、また、原発を廃棄できないのも・・・。
さらにさまざまに化学薬品で加工された人工食品は、
体に害をおよぼさないはずがないですからね。
また、働くということも、
自然から離れれば離れるほどに
人間の精神もおかしくなります。
たしかにてっとり早いのは工業経済です。
しかし
農業や漁業や林業などは、
効率が悪くとも、
そこには自然がドンと構えてあります。
自然からの眼にはみえない恩恵があります。
仮想現実をいきるのではなく、
しっかりと地に足をつけて
額に汗をながし、働いて、
人間関係の難しさも乗り越えていく。
そこに、行き過ぎた文明の眼には見えない病理を
解決する何かがあるように、
私は思います。
長く書いたので、今日はここまでにします。