オタク文化の若者たちへ! |
私は、戦後以来の、まさに巨きな時代が終焉していくのを
はっきりと痛感しました。
戦後とは、封建的な日本社会が敗北し、
デモクラシー民主主義の日本となったのですが、
その結果
戦前の<階級社会>が崩壊し、
さらに途中からは、階層社会までもが崩壊しました。
中間層、最後には中流層までがなし崩れたのです。
また、戦後の大きな変革のひとつに農地改革がありましたが、
それがほんとうによかったのかどうか?
もしかしたら、現代の地方衰退のおおもとに、
それがあるのかもしれないとも私は思うのですが、
わかりません。
※戦前にあった地主を中心とする
農地の共同体が壊され、
農地が個々の個人所有になったことは、
農業が地主や庄屋を中心とする、
地域共同体の経営から、個々人の経営になり、
もしかしたら、そこに、
現代にみられる地方衰退の萌芽を呼び込んだかもしれないとも
思うのですが、本当のところは、私にはわかりません。
本当は、歴史学者や社会学者が、きちんと総括すべきなのですが、
彼らさえも現代は沈没してしまったのかなぁ~・・・。
つまり戦後の歴史の流れを大きく俯瞰すると、
封建制から解き放たれて、自由を得た民衆のさまよいの歴史が見えます。
戦後、日本はあまりにも簡単に<自由>ということを手ににいれたがために、
それも外圧によって得た自由であるがために、
<自由>をはき違え、経済の成長が、
<自由的、高級生活>を手に入れられるような幻想の中に
陥りました。
それに呼応するように、戦後教育が生んだのは、
学歴社会という、短絡した人材教育です。
その学歴社会幻想も
一時、世界経済のトップランナーを走った後には、
情報化社会への移行とともに、あっという間に崩壊しました。
さらに、次の世界経済の中でのインターネット産業の敗北の次には
人工知能化社会をつくろうとしている日本の姿があります。
眼の前を通り過ぎてゆく時代は、
戦後、それまでの日本的秩序の解体と
新しいデモクラシーの日本の再生の流れの中で、
足元が不確かに、
アメリカをはじめとする、海外世界に翻弄されながら、
よろよろ、キョロキョロとさまよう
試行錯誤の時代であったと思います。
高度経済成長の繁栄と衰退、そして情報社会、
さらには人工知能、デジタル社会の出現の前に
アナログな昭和と平成の時代という巨きな時代、
それも、なにかしら、迷い続けた時代が、
終わろうとしているのですね。
まさに私たち団塊の世代が死に絶えて、終わりです。
そして、
このまま時代はさまよい続けるのか、
それとも、足元を地につけてしっかりと日本を立て直すのか。
もう、私は次の時代を担おう人々にまかせるしかない。
なにが問題であったのか?
それを、えらそうに言う資格は私にはありませんが、
なんとなく、うっすら見えているのは
<自由から自立へ>というキーワードです。
そんな中で、
ただ一つ救いなのは、
学歴社会幻想の陰で、
時代が産み落とした<オタク文化>の若者たちの存在です。
社会の中で一定の層をもつ彼らは、
確かにこじらせたり、ニヒリズムに陥ったりの問題はありますが、
そこには時代を冷めた目で見続けた知性があります。
私は、彼らの中の根底にある知性を信じたいのです。
●世の中一般の軽薄文化ではないところに生きている若者たちが、
いつか、
自分たちの能力や、潜在するエネルギーに覚醒し、
なにがもっとも大切なことか、
人間の根源的なことはなにかを、
思惟し、思考し、行動化し、
底力をもって
昭和と平成の閉塞の窓を開ける社会を創り出してほしいと
私は願います。


こちらのブログを拝見するようになってから、
ある日 サン=テグジュペリの言葉と巡り合いました。
彼のことは説明するまでもないでしょうが、
ある意味、命がけで生きた飛行機オタクだったとも思える人です。
denshinbashiraさんの言葉にオーバーラップする言葉が
あふれています。
まるで今の世の中を予見しているかのような言葉もあります。
救いは一歩踏み出すことだ。さてもう一歩。そしてこの同じ一歩を繰り返すのだ。
地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。
人間たちはもう時間がなくなりすぎてほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でも友だちを売ってる店なんてないから人間たちにはもう友だちがいない。
どこにでも好きな方に歩いていける。
ぼくは自由だ…
だが、この自由はほろ苦かった。
世界と自分が、
どれだけつながっていないかを思い知らされた。
賢治にもう少し時間が残っていれば、彼のような大人に
なれたかもしれません。