この映画は AIテクノロジーの時代に警鐘を鳴らます。その1 |
~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~
二つ目は、先進国の病理である少子高齢化社会をどう乗り越えるかです。
AIデジタル時代をどう生きるか
難しいことは言いたくない。皆を不安にさせるようなこともしたくない。
それでも、やはりこのことは伝えておかねば。と私は少し追い詰められたのかもしれません。
それは、このまま文明が進んで行くとき、
もしかしたら、人間はとてつもない大切なものを失うことになる、と私が思うからです。
人間は、自分の身体を使って様々に体験、経験することによって、脳が成長します。
このままAI文明が進むと人間は、
ロボットやAIに代理され、乗っ取られ、
人間の脳も体も退行する恐れがあるからです。
それは精神をも退行させかねません。
脳の代用が始まる
人間が自然をコントロールすることが始まり、
いよいよ人間最後の砦でもある、脳世界の代用が今起きようとしています。
私は古い人間かもしれないし、科学音痴かもしれない。
しかし人間が指や体を使わなくなり、
さらに脳が実体験にもとづかないバーチャル世界を拡大させることにより、
人間の自然性が損なわれ、人間の退行現象に繋がると思うのです。
ご存じのように、指は第二の脳と云われます。
人間の脳と体を使ったさまざまな体験知や経験が、
その人間の脳の性能をあげていきます。
つまり人間は感情をともなった経験と体験によって、
脳がより複雑で奥行の深い回路を作り上げるのです。
体験知がロボットやAIに代用されてゆくと、どういうことになるのか、を想像すると、
やはり一抹の危惧をせざるを得ません。
そんな思いの中で、私はある絵と出会いました。
ガラス絵の中には
そこには、体を使って働いている人々と、懐かしい昭和の風景が描かれていました。
透きとおったガラスの画面に、自然と共に働く人々へのオマージュが描かれています。
田植えをする人々、畑を耕す男とヤギ、秋の林檎を収穫する女達。
行商のおばさん達、鎮守様のお祭りや、
伝説の中の雪女やザシキワラシなど、それは遠野に棲みこんで、
もうこれからは、田も畑も機械化が進み、
AIの導入がはじまるでしょう。その時もしかしたら、
田んぼにも、畑にも、果樹園にも、そして商店にも、
人の姿が見えなくなるかもしれません。だとしたら、
今のうちに、田んぼで手植えをする婆っちゃ達が生きているうちに、
その姿を映像で撮っておこう、映画にして残しておこう、
今ならまだ間に合うと私は考えました。
それは、72歳の私の人生最後の仕事として、
次の時代に対するささやかな贈り物として。資金は私の年金で賄います。
少子高齢化社会をどう乗り越えるか
先進国の病理である少子高齢化という問題を大きな視野でみると、
そこにも行き過ぎた文明の爪痕があります。
政治的な移民政策や社会制度の改革などで対処するだけではなく、
もっと奥にある人間にとって労働とはいうことはどういうことかということであるかを、
文明と文化の視点から検証する必要があると思います。
労働は人間の能力を作り出す
労働が単に物質や金銭的価値をうみだすだけのものではないことに気づかなかったのです。
人間が労働の技術を創出したのは二足歩行により人間の腕と指が解放されたからです。
しかし近代テクノロジーの文明は、労働の代行だけでなく、
脳の代用にも及ぼうとしています。
単に機能の代理をすることにとどまらず、
人間の能力や自然性に基づく本能や感覚や感性にまでも、
退行が起きてしまうということです。
また人工的社会が進み、
自然をコントロールすることが加速されていく先に起きてくるのは、
自然をコントロールすることの限界です。
もうすでに気象の異常や地殻変動やオゾン層の破壊、
放射能汚染など、様々なサインが出ているのにもかかわらず、
人間はとどまることをしりません。地球社会は、
この映画は
AIテクノロジーの時代に警鐘を鳴らます。
ドキュメンタリー映画「どこかに美しい村はないか」
~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~
予告編