AIテクノロジーの時代、人間は幸せになれるか? |
人間はどうしたら幸せになれるかを、考え続けてきました。
私の考える幸せとは、
豊かな物質を持つことでもなく、
お金持ちのなることでもなく、
どうしたら私は,他の人間と心豊かにおおらかに、共存していけるか、と
いうことです。
どうしたら私は,苦しみや煩悩の欲求から、解放されるかを
人生をかけて考え、
実践してきた、と思います。
最初は、哲学や社会学や心理学から入りましたが、
50歳ごろから脳科学の世界も合わせて
人間のことを考えるようになりました。
なかなか難解な脳の世界を理解するまでには
時間がかかりましたが、それでも、
人間の意識と行為は、
脳の世界と体の世界のが作り出す
小宇宙であることが
分かりました。
※小宇宙というのは、自分の脳と体とが作り出す、
小さな自分の全体世界ということです。
明確に分かったことは、
自分の脳の中に、何が刷り込まれ、何が思い込まれ、
それが自分の世界観、人間観として、意識として、
●脳の中で文脈化されているということです。
脳の中の記憶データが、豊かであればあるほど、
そこにたくさんの体験知や経験値や知識が,あればあるほど、
考察により深化が深まります。
その時、脳が作り出す意識は複雑で複層的になります。
それが能力としての高さを生み出していきます。
●記憶が行き交う考察の深化は脳の無意識の中で行われます。
そこには、限りないヴァリエーションが生まれます。
それが脳のクオリア(質感)として、
さらに抽象的で普遍的な世界を生み出していきます。
●つまりそれが、人工知能のディープラーニング、ということです。
人間の脳の深層(無意識の中の深層)で脳がその時の考察のヒントや素子になるものを
さらに高次のものへとジャンピングしていく。と
いうことです。
つまり、人間の脳世界は、脳内情報が貧弱で在ればあるほど
複雑な考察ができず、
逆に、脳内情報が豊かで在ればあるほど、複雑で複層的な考察が可能になると
いうことです。
そしてもう一つ大事なのが、脳の作り出す意識=観念世界を、
裏付ける●体の実践的な体験です。
体の実践的な体験が伴わなければ、
それは単に脳の仮想や妄想という
観念のつくりもので終わりますからね。
さて、
これからの、AIテクノロジーの時代は
これまでは不可能とされ、コンピューターの限界であった、
脳の深層の思考力や学習力が、
AIの進化により、
人間の無意識層の深層で行われる複雑な学習さえも、
AIが代行できる可能性を帯びてきた、ということです。
このことが、シンギュラリティーを起こし、
さらに人間の知能を超えていくということです。
逆にAIに脳の代理させ、
技術を機械、ロボット代行さることにより、
利便性や生産性の代償として、
●人間が経験値や体験知を失い、
知識の獲得や、考察力まで失うことも
起きうるのです。
もう
お分かりですね、
おそらく、そういうことになったら
人間の脳の停滞や退行がおきるかもしれない、と
私は考えているのです。
その時、
複雑で、多層で、多様な自分の脳を獲得した人間と、
AIテクノロジー時代は、
もしかしたら、そういう現実が起きてくる可能性がある、ということです。
シンギュラリティーにおいて、
人間を超える超天才的な頭脳の世界をもった人工知能の時代が始まるとき、
そこには私を(もういないかもしれませんが)含めた、
凡庸な人間のほとんどが、無能になり、無用になるということです。
そういう危機感を持ちながら、
●人間にしかできないことはなにか・・・・。
●人間はそれを探し見つける必要がありますよ。
そしてその一つとして、
私は農業の<自然栽培>の中にその可能性を見つけたのです。
<自然栽培>は、テクノロジーとは真逆の、効率が悪く、生産性も低い栽培法です。
しかし、それはテクノロジーに犯されていない、世界です。
植物や生き物、本来の自然の生命力や力をいかし、
●ほとんどを自然のままに任せ、
人間は最小限に手を加えるだけの農法です。
このことは次回詳しく書きます。
冒頭に書いたように、
もっとも大切なことは
人間が、幸せになる、ということです。
果たして、AIテクノロジーの時代は人間に幸せをもたらすのでしょうか。
それとも、大切なことが失われれてしまうのか。
ほんとうにそれを考えなくてはならない時代が
もうそこに来ているということですね。
現代の社会は資本主義が根底にあります。
拡大再生産。
常に前進し続けることで成り立つ構造です。
自転車に乗っているのと同じ。
ペダルをこぐのを止めると 倒れてしまいます。
いつしか、人の在り方までも、そのような考え方に
なってしまっているように思えます。
進み続けることが 善。
止まること とどまることは 悪。
戦国時代の大名は今の資本主義の中の企業と同じでした。
常に戦い続けて、領土を広げていかないと、国内の経済は停滞し、人心は離れ、滅びてしまうのです。
だから、戦国時代を終わらせた秀吉は、その先を海外に求めるしかなかったのです。
その仕組みを止めたのが、徳川幕府でした。 それでも、お金の流れ、経済というものの動きを完全に制御することはできませんでした。
「もう ここらで よか」
西郷隆盛の最期の言葉です。
今 ここで 述べようとしていることとは全く違う意味で
彼が残した言葉ですが、 この言葉が恥ずかしいことだと思われない世の中であり続けてほしいです。
それがいつしか、人の在り方までも