シリーズ「AI時代をいかに生きるか」その3、虚構とは何か? |
<虚構>とは、
どういうことであるかを補足して説明します。
お金を例に説明すると、
お金は本来ただの<紙>にすぎません。
国が刷って、お札と名付けた紙です。
しかしそれが、物や労働との交換価値を持つ、
ただの紙ではない、ということを信じてしまうと、
そこにお金という虚構の世界が生まれます。
ほんとはただの紙に過ぎないのにね。
そしてそれが、自分を豊かにしてくれたり、
幸せにしてくれるような錯覚をもち、
だからこそ、お金は大切という神話がうまれ、
お金をためるとか、
お金持ちになったら、幸せになれるような錯覚が
生まれるのです。
逆にお金を失うと不安に駆られます。
物や労働の交換価値を授けられたお金は、
人間の心を支配してゆきました。
人間は、自分の労働の価値や
物本来の価値ではなく、
お金の価値を信じこんで、生きてきたのです。
また国家という虚構については。
人間は、誰もが同じです。
しかし、生まれた場所や、その周囲の人間の習性や、同じ血統を持つものが
そこでの秩序や掟(法)や共同の利益や利害をもち、
それを国家と名付けてフレーム化しました。
実際には国家は単なるフレームでしかないのに、
そこにあたかも物理的な国が実在するかのような
錯覚を信じ、ストーリを作り、
自分たちの利益や利害を反映させ、
秩序を維持し、
リーダーとしての権力者を立て、
それに従って生きるという虚構をつくりあげました。
つまり虚構とは、人間が自分たちの便宜に合わせて、
自分達を束ね、協働していくための、フレームを作りそこに、
思想や、宗教や、団体のストーリーがあるかのように信じ込み、
それに自分達を帰属させ、、依存している、幻想体のことです。
ユヴァル・ノア・ハラリ氏によると、
虚構と現実とを区別するには、
「対象とするものが、苦痛をあじわうかどうか」だと書いています。
彼の言葉を引用します。
「苦痛はこの世でもっともリアルなものです。
しかし国家は苦痛を感じません。
自分の国家が戦争に負けても、苦痛をかんじるのは国家ではなく
そこで暮らす人々です。
企業も苦痛を感じません。
自社が大金をうしなっても焦るのは自社ではなく、
そこにいる経営者や社員です。
国が戦争に負けて苦痛を感じるというのは、単にメタファーにすぎません。
国には気持がありませんから。苦痛を感じることもないし、鬱になることもない。
われわれの想像の中で苦痛を感じるだけのことです。
銀行や企業にしても同じです。
たとえば、トヨタが大金をうしなっても、「トヨタ」という存在自体は
苦痛を感じません。
それはわれわれが作り出した法的な虚構です。」
お金にしても、国家にしても、トヨタにしても
それは、そこに何か価値やストーリがあるかのように
人間が信じこんで、依存したり、帰属意識をもったりしているだけです。
さらに引用します。
「人間は、長い時間の中で、目の前にあるのが現実なのか、
それとも誰かが作ったストーリなのか、区別する能力を失いました。
結果、多くの人が、国家や会社や神という想像上のものに自分を捧げて
戦争に行き、何百万という人を殺戮したのです。
こうした事態を回避するためには、まずは目の前にあるものが、
現実か虚構なのかを区別し、その上で利用する方法を考えることです。」
再度書きますが、
<虚構>も決して悪いものではありません。
大勢の人間が、力を合わせ、共存していくために
虚構は必要です。
人間は同じ虚構を信じながら、
そこに指標を結び、それを手掛かりに
集団で生き延びてきたのですから。
人間は虚構を作り上げながらいきてきました。
●しかし、それが虚構である、とい認識を
しっかり持つことです。
インターネット社会が生まれたとき、
もう、うかうかとその虚構を信じ
インターネットのデジタルビジネスに多くの人が嵌まりました。
今も嵌まっています。
しかし、そこで勝ったのは、ほんの一握りの人間たちです。
また、グローバル経済の虚構は、一国が倒れたら、ドミノが起きるという危機を
はらんでいます。
さらに、空想的な金融経済は、
人間の実働を軽んじ、まるでゲーム感覚で株取引が行われています。
そして、AIテクノジーの時代では、
人間の脳がAIに代理され、労働がロボットに代理されることが
始まります。
それはもう、AIテクノロジーにたけている人間だけに、
文化やお金が集中していくということです。
大変歪んだ格差が、生まれかねないのです。
そこでは、
まじめ働けば、一生懸命働けば、報われる、
あるいは幸せになれる、ということが、崩壊してしまいます。
つまりみんなで一緒に生きる、ということがもう
通用しなくなるのです。
だからね、だから私はもう、こうしてその危機を
お伝えしているのです。
これからのそういう厳しく、苦々しい時代を前にして、
私は去らねばならないことが
ほんとうに痛いです。
だから映画を作りました。
しかし私たちが、そこにすっぽり嵌まっているわけではありません。
次回はそのことについて、
私たちが置かれている現状を
厳しく分析したいと思います。
