心に沁みるイエスのことば、その15、私と繋がっていなさい! |
若いころに読んだ聖書のイエスの世界があったからだと思います。
若いころに読んだ新約聖書のイエスの言葉に私は感動しました。
読みながら、涙がホロホロこぼれました。
自分が救われたような気がしたのです。
その言葉は今も私の生き方の道筋を示してくれています。
私がドストエフスキーに出会えたのも、
聖書という下地があったからです。
今日お話ししたいのは、イエスがいつも弟子たちに言っていた
「私と繋がっていなさい。」という事です。
ちょっとご紹介します。
ヨハネ15章の1より、
「私はまことのぶどう木であり、私の父は農夫です。
中略
私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。
中略
私はぶどうの木で、あなた方は枝です。
人が私にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方が何もすることができないからです。
誰でも、私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。
人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなた方は私にとどまり、私のことばがあなた方にとどまるなら、何でも
あなた方のほしいものを求めなさい。そうすれば、あなた方のためにそれが
叶えられます。
あなた方が多くの実を結び、私の弟子になることによって、私の父は栄光を
おうけになるのです。」
つまり、その人の幸せや愛の世界を成就するために、
ぶどうの木である私(イエス)と繋がっていなさいということですね。
ここにも、イエスの深い人間洞察の知恵があります。
繋がるとは、ただつながるということではなく、
長い時間をかけて繋がっている。ということでもあります。
繋がっていてこそ、様々なことに目覚めることができるのです。
そういう時間軸というか、時間の流れがたいせつなのです。
当時のイエスは修行者としてあり、
だからこその師と弟子の上下関係の言葉で語ります。
さらに自分にとどまれ、というのは、決して依存しなさい、と
いうことではありません。なぜなら、イエスの弟子になったら最後
厳しいことばかりが突き付けられます。
それは、自分で考えて、判断しなかればならないことばかりです。
自分の欲や我の世界をすべて捨てて、つい来いというものだからです。
そしてここでいう、父とは神のことであり、言葉は、人間の真理の意識、
=根源的な意識のことです。
イエスは根源的なことを訴え、戒めているのです。
戒めは、脅迫的でもありますが、それほどイエスが突き詰めて要求してくるのです。
※仏教でも最初は本当はこういう厳しさがありました。
しかし後世の人間たちがそれをどんどんゆるく、甘くしていきました。
イエスの激しさ、強迫性をもってしても、ここには真理があります。
人間は、自分の中に高邁な理念や規範をもっていないと、どんどん世の中の
通俗性に流されて行きます。
通俗性=世の中は不安と欲望のるつぼです。
しっかりとした認識をもっていないと、不安や欲望に流されてしまうのです。
世の中にまみえてしまうと、自分を失いがちになってしまいます。
その最もいい例が日本が犯した戦争という間違いです。
私は当時はまだ生まれていません。戦後2年たって生まれたのですが、
それでも戦後の国民の中には、
軍部ファシズムにマインドコントールされて
大変な過ちを犯した悔いがありました。
人々が、世の中の流れに自分をまかせてしまったからです。
うかうかすると、人間はひょいと間違ったことを選択してしまいます。
そして今の日本には、そういう危うさがありますよ!!
イエスのいう、私にとどまっていなさい、ということを
私は切々とそう思います。
私もついうかうかと自分の自我の利己的世界に取り込まれます。
でも、私は、そういう私を常に戒め軌道を修正する自分を持っています。
それは私がたまたま、そういうことを学ぶチャンスを得たことで
ほんとに幸せなことであり、感謝しかありません。
そして、私も同じように、私がカウンセリングした人々には、
私と繋がっておいで、といいます。
なぜなら、人間がその内面のお掃除をするのも、ネガティヴな自分から脱出するにも
相当の時間を掛けなければならないからです。
一回きりのカウンセリングでは、表面をお掃除したくらにすぎません。
自分の中に植えこまれたネガティブな思い込みや
自己ディスカウントは、脳の中でそれがシステム化されてしまうと
その人の脳(心)を乗っ取り、
1回、2回くらいカウンセリングして退治しただけでは
治りません。
まるでモグラ叩きのように、
こっちを退治しても
あっちから別のモグラが顔を出すという風に、
内面中に張り巡らされた蜘蛛の巣は、なかなか取れないのです。
人によっては,十年も二十年もかかります。
だから、最後の鎖を断ち切るまでは、私とつながって、といいます。
しかし、残念ながら、途中で挫折したり、切れたりする人も大勢います。
人間は、一つボタンを掛け違えると、それが幸せと不幸せの別れ道になります。
なにをしても、人生がおかしくなり、その道筋が怪しくなっていきます。
それくらい脳の中(心の中)は繊細で、複雑で、難しいのです。
自分の人生の軌道を、幸せに向かわせていくには、
とても厳しい自己省察が必要なのですよ。
だからこそ、ただただその人の人生の幸せを遠望して、
私とつながっておいで、といいます。
決して高慢に言っているのではありません。
しかし残念なことにたいがいの人は、そのボタンの掛け違えを指摘されると、
逆切れしたり、
わたしを嫌悪したり、切ろうとしたり、仕返しをされたこともあります。
私は切られても構いません。そんなことなど、小さなゴミ屑のようなものです。
それでも、私が放り込んだ言葉が、いつか、響くことを願いながら、伝えます。
もし私のことばが、当意を得ず、間違っていたなら、
その人は傷つくこともなく、反応もしないはずです。
私はそこに信頼をおいて言葉を発します。
傷つくという心理は、どこかに思いあたることがあり、
それを認めたくない自分が傷つくのです。
つまりそこに自己との葛藤がおきそうになるからですね。
自分と戦い、自分を変えなくてはいけなくなるなるからですね。
自分を変えるには、自分の中のプライドや敗北感を、
乗り越えなければなりません。
しかし、自分と戦おうと決心した人は、
その瞬間から、そこに新しい道が開けてきます。
道元の「正法眼蔵」でも<全機>編で、仏道の究極は、徹底した自己否定と
それによって可能になる自己肯定になる、としています。
わたしのカウンセリングも徹底した自己否定と、それを乗り越えたときに立ち上がる
自己肯定であり、
そこには漸く自分の本質を得た、輝くような喜びがあります。
しかしそこまで行くつくには、十年余もかかります。
心とは、それほど深く、難しく、
安易なものではないのです。
私に見えているのは、その人が自分のゴミの殻を脱いで、
さっそうと自分を生きる姿です。
イエスは必至で、自分と繋がっていなさいと、呼びかけましたが、
十字架にかけられました。
この十字架にかけられた、ということこそが、
逆にイエスの言葉の正さを表しているのです。
だからこそ、イエスのことばが2000年も生きているのです。
人間はなんて愚かで悲しいのでしょうか。
人間の生きるのはなんて厳しいのでしょうか。
それでも、十字架にかけられたイエスが発したのは、
父よ(神よ)自分を十字架にかけた彼らをお許しください。
彼らは何も知らないのです。
という愛の言葉でした。
人生を貫通するのは愛の世界です。
自覚的な愛の世界を以て自分の人生を創作しなければならないのです。
人間は、ほおっておいたらどんどん自分の利己利害に走ります。
愛の世界とは、
自分の役割に気づき、
他者も自分も幸福にするには
何をしたらいいかを、考え続けることです。
人生は、時間をかけて、自分を生き、
その道すがらにひとつひとつの愛を
拾ってゆくことですかね。