長男を殺害した農水事務次官の事件に思う。 |
ぼんやり窓の外を見ながら本よんを読んでいました。
ただ、頭の中はなんだか落ち着かず、
人間がボタンを掛け違えると、人生がどんどん狂いだす、ということが
脳裡を横切ります。
私くらいの歳になると、おおよそ人間のことも、世の中のことも見えてきます。
さらに無意識の深層心理が、どんなふうに脳の中で構造化しているかもみえるので、
なかなか大変です。
大変というのは、
こうすれば解決できるのに、という道筋が見えている分、
長男を殺害した農水事務次官の事件など、
もう痛々しくてみていられないのです。
家族が皆が、どこかでボタンを掛け違えたのでしょうかね。
それに本当は、専門家との連携が必要であったと思いますが、
事が家庭と家族という<密室>で進行したことも、
もう救いようがないです。
長男さんも攻撃的感情のスイッチを切る、というトレーニングが
必要であったでしょうし、
家族の問題を、自分達で、閉じ込めないで、外に出す、
光の中にだす、という勇気も必要だったと思います。
しかし、後付けでとやかくいってもむなしいばかりです。
ただ、このお父さん、刑を無事に終えて、人生の最後は安らいでほしいです。
残念ながら、自己防衛や自己憐憫や
さらに虚栄心や取り繕いのボタンをかけてしまうと、
人生はどんどんそれを強化してしまいます。
人間はどこかで自分をさらしながら生きるという覚悟が必要なように
思います。
自分の無能のところも、アホなところも、愚かなところも全部丸見えで、
いいです。
そして最後は、他者に、助けてください、と助けを求める勇気をもつことです。
以前評論した韓国のイ・チャンドン監督の映画「シークレット・サンシャイン」では最後のシーンで、もう力尽きた主人公の女性が、道行く人に「助けてください。」と救いを求めます。
そこにはイ・チャンドン監督の深い人間洞察と、いかに人間は弱く、小さいかが
描かれています。
人間の脆弱さや小ささを、イ監督が熟知しているのすね。
人間て、ほんとに弱いんです。
本当はみんな、助けてほしいのです。
でも、文明が進めば進むほど、
その言葉は発せられません。
反対に人間はそういう言葉を禁じ、病んでいきます。
助けるとは、物資ではなく、
心を助ける、ということが
ごく普通に、そして、いとも簡単に、
お互いの共有コンセンサスになるような世の中には
ならないものか。
ず~っとカウンセリングをやっていて感じるのは、
助けてもらうことが、自分の甘えであり、他者の迷惑になるという
思いこみです。
現代はそういうものがはびこってしまった世の中です。
もっとね、
もっと心が開いている世の中にしないと
いけませんね。