農水事務次官の事件より。イ・チャンドン監督映画「シークレット・サンシャイン」より |
その中のほんの一部分が意識として具体化されているにすぎません。
だからこそ人類は仮想と実証という学問を発展させることができました。
なぜなら脳のなかには,自在に変化し発展する可能性を持ったエレメンツが
海辺の砂の数ほどもあるからです。
※人間の脳は10テラバイトの記憶の容量をもっているらいしいです。
脳は仮想しては、必要なエレメンツを拾いあげ
ジグソーパズルのようにそれらを組み合わせてひとつの結論へと展開させていきます。
つまり私たちは極端にいうとその抽象性の中で、お互いの抽象性を通して
不連続な個が(ひとり一人が)連続に繋がっているということです。
ただ、それを言葉にしてしまうと、とても限定された貧弱なものになってしまいます。
だからこそ、本でいうと300頁を費やす必要があるし、
映画なら2時間近くの映像の中でやっとなんとか、その全容を伝えることができ、
そして繋がれるのです。
私たちはそういう豊穣なる脳の世界を、生きているのですね。
そしてその抽象的に繋がるということは、どういうことであるかを、
映画「シークレット・サンシャイン」の中でイ・チャンドン氏が
思考を綴らせているのです。
では、一緒に考えましょう(思考しましょう)!
「シークレットサンシャイン」というのは「密陽」という町に、夫を交通事故で亡くした
シネさんという女性が遺児をつれて引っ越してきます。
この「密陽」という名前が映画の題の「シークレット・サンシャイン」です。
<ひそかなる光>とでもいいましょうか、とても暗示的な名前です。
その引っ越しの途中で車がパンクし、その修理をしたことが縁で
キム社長という青年と知り合います。
このキム社長がシネさんをすきになり、シネさんからはタイプではないと
そっけなくされながらも、知らない土地で生活を始める彼女に寄り添います。
キム社長の世話でシネさんは、密陽のまちでピアノ教室を始めます。
しかしシネさんの自我はまだ幼稚というか、自己顕示や虚栄心があり
初めては入った店で、都会から来たという優越心から
店インテリアが良くないと指摘したり
或いは自分がお金をもっていることを、大勢のお母さんたちの前で
ほのめかしたりしてしまいます。
でもねこんなことはどんな人間にも良くあることなのです。
しかしそれが禍したのか、彼女の子供が誘拐され身代金を要求されるのですが
お金が足りなくて殺されてしまいます。
子供の葬式を終えたシネさんに親戚の婆さんの罵倒が飛びますが、
シネさんは涙も出ないほど体も心も硬直してしまいます。
ほんとうに辛いからこそ体も心も鈍くなるのです。
それは一種の命の防衛なのですが、それがもう
苦しくてたまりません。
そういうシネさんをキリスト教の幹部が「貴女を救いたい」からと
祈祷の会へとさそいます。
もう胸が詰まってしまい、その苦しさをだれにも打ち明けることができないシネさんは、
キム社長に寄り添われながら試しに教会へ行き、
聖歌を歌い高揚する信者の中で、牧師から頭に手を添えられた瞬間に
彼女の中の胸のツマリが一気にとけだし、彼女は初めて号泣することができます。
つまり牧師の手のそのぬくもりから、神の許しを得たという許しの秘跡に包まれて
彼女はやっと安堵を得、その苦しみから出ることができたのです。
※キリスト教では神から許されて神の掌中に入り、心が溶けていくことを秘跡といいます。
このことを契機に祈祷会で祈り、聖歌をうたい、シネさんはキリスト教の信者としての
活動をはじめます。
そしてある時、シネさんは自分の子供を誘拐し殺した犯人を赦そうと思い立ちます。
自分が神様から許され自分を赦したようにです。
きっと犯人も苦しんでいるに
違いないと・・・。
しかし、犯人に許しを与えるために面会したシネさんに犯人は、
自分もキリスト教に帰依し神から許されて楽になり、さらにシネさんも
赦してくれるとはなんとありがたいことか、と告げます。
自分は犯人を許しにいったのに、犯人はもう赦されていた!
そのことをどう受け止めていいのかわからなくなったシネさんは、
気絶しそうになります。
その自分が想定もしない、予期もしなかったことに
自分はどう向き合ったらいいのか。
さらにここには自分を上位に置き、犯人を下位においている
シネさんの選民意識が、ぶち壊されてしまいます。
彼女のアイデンティティーが崩壊してしまいます。
神はなぜその不合理を、自分に与えたのか?
しかし神は沈黙したままであり、またここから彼女は迷いの中へと
入りこんでしまいます。
そしてシネさんは、今度は神を試そうとしだします。
CDを万引きしたり、祈祷の集会で牧師の説教や聖歌を妨害したり
ついには自分を教会に誘いこんだ長老と呼ばれる女性の旦那を
誘惑して、自分を犯させようとします。
さすがにこの誘惑は寸前のところで、彼が自制心をとりもどして
不発に終わりますが
しかしシネさんはもうどうしたらいいのかわからなくなり、
混乱のなかで自分の手首を切ってしまいます。
その時なにかが起きます。
つまり自分の自我が拠り所としていたことが、
次々と崩壊し、自分がもう立てなくなったときに
シネさんは血が流れている手首を抱えて、通りへと飛出し
道行くひとに「助けてください」と助けを求めます。
シネさんが抱え込んでしまった苦しみは、誰もしりえないものです。
キリスト教の幹部がいくら同情的であっても、その深く
硬直した心の深部には、誰も入ることができません。
しかしそれも、シネさんの人間不信や、疑心暗鬼が募り警戒して
人間をはねつけているのです。
たしかに宗教は人間を超越する神により、
一時的にはその人間の感情を溶かすことができるでしょう。
しかし反面、人間の弱さの隙間をついてスルリと入り込み依存させ、
そのを言葉で人間をコントロールしてしてしまいます。
だから根源的な救いにはなりません。
では何によって自分を救いだしたらいいのか。
人間は,自分ではどうすることもできないことから
どうやって自分の魂を救うのか・・・と
イ・チャンドンは考え続けます。
神が人間を救いうるのか?
しかし神に依存したシネさんは、みごとに神に裏切られます。
もう一度人間は,どうすることもできないことから
どうやって自分の魂を救うのか?
それは、自分が彷徨いつづける中で、自分に起こることをてがかりに
そこから自分が自分を救い出すしかない!
苦しい中から歯をくいしばり<生きようとする自分>を見つけ出すしか
ないのです。
実は人間は、そのことを知っているのです。
何を知っているのか?
それは、シネさんが自分の手首をきって、
自殺する衝動に駆られてもなお
そこからをも自分を救いだそうと、咄嗟にとった行為の中に
あります。
もう何も自分を救ってくれるものがない。自分の苦しみをどうすることも
できなくなった自分を
「助けてください」と
道行く人、つまり自分が抱えている事情など、一切しらない
見知らぬ人へ助けを求めた、ということです。
なぜ見知らぬ他人へ助けを求めたか?
そして人間は助けます。
それはなぜか。
つまりそこにこそ、人間の根源的な繋がりがあるからです。
生きようとする人間と、人間は繋がるのです。
事情をしっているから助けるのではありません。
知り合いだから助けるのでもありません。
人間は目の前に、
生きることに弱っている人間、痛んでいる人間をみたら
助けずにはいられないのです。
勿論例外のひともいますが、その方がよほどまれです。
なぜならほとんどの人間は、その人の中に自分を見るからです。
その人の中に、同様に痛む自分、苦しむ自分を見るからです。
それは人間の意識の中にはきちんと言葉で文脈化されていませんが、
しかし漠然と、そういう命を全うしようという、命への愛おしみが
あるからです。
それはとても抽象的なもので、目に見えたり、はっきりと言葉化することが
できないものですが、あるのです。
だから漠然として、そういう働きを「こころ」とか「たましい」と
呼んでいます。
しかし安直に、またヒーマニスティツクに心とか、魂と言わないでください。
心も魂も、脳という物質のなかで意識と無意識によって生じる脳内物理現象です。
決して神秘やオカルトでは、ありません。
それは脳が、如何に素晴らし機能を持ち、
人間の想像力をはるかに超えた世界を創りだすかということです。
だからこそその解明が難しく、現代の科学もその解明の途上にあります。
でもね、私達はそういうい素晴らしいものを、首の上に
乗っけていきているのですぞ!
凄いね~!
だからこそ、心という現象は、大変複雑な内容の中で
起きてくるとっても厳しく荘厳なものであり
安易に取り扱ってはならないものなのです。
そして不思議なことにどういうわけか、だれもが
人間には心がある,魂があると思っています。
これも脳内現象ですから当然なのですが。
それはほんとうにあるかどうかを、人間は確認することができませんが
でもそれは見えないものでしょうか。
本当は脳で生成され、体へとホルモンを通して流れるなかで
起きる現象で、
意識でははっきりと、自覚していなくとも
様々に人間の体を通して、現象として現れているはずなんですが。
このあたりは専門でないので良く説明出来ないのですが。
実は人間の顔や目の表情、皮膚や筋肉の動きや声の状態、
体のしぐさやその人間からでる気配等々で、
人間は常にその心を体現しながら生きています。
だから本当はよーく目を凝らして見いてみると、
どんな人間にも、それは見えていると私は思います。
自分の中にも他者の中にも◎無意識のうちに、見ていると
思います。
だからこそ人間は、ほんうとうに自分の生きるすべを
全てなくした時
「助けてください」と、その救済を他者を求めることができるのです。
私はこの言葉にこの映画のすべてがあると思います。
つまり他者のなかにあるものを、意識してはいないがあるものを
信頼し繋がろうとするのです。
そして求められた者は反射的に、或は無条件に助けようと
します。
人間は弱いです。時に様々にその関係が悪へと誘引されますが
しかし一方で無条件に、他者へと繋がろうともします。
そういうなにかを確信してもっている。
そしてそれは、意識にはないが見えている。
だからこそ、社会や集団が成立するのです。
人間はちいさな存在であり脆弱な存在でもあり、
誰もが自分のことでせいいっぱいです。
だから助けることができる時もあり、助けることが
出来ない時もあります。
そういうものであり、それは人間の限界でもあります。
しかしそこには、助けられないことに対する、
深い自省が生じてきます。
だから人間は苦しいのです。
さて
手首を切ったシネさんは、病院へと運ばれ入院しますが
その退院した日にあのキム社長が迎えに来ます。
キム社長はシネさんが好きで、いつもシネさんに
つかず離れずの距離でまあ、シネさんの保護者のように
寄り添います。
そういうキムさんにシネさんは甘え、ツンケンとするのですが
退院したシネさんは髪をカットしたいと、
キム社長に美容院に連れてってもらいます。
しかしその美容院には、彼女の子供を誘拐し殺した男の娘が
助手として働いています。
その娘も非行を繰り返し少年院に入り、そこで美容術を習ったと
告げます。
シネさんにとっては、彼女が自分の髪を切ることは
受け入れがたいことであります。
しかしその彼女だって必死で生きています。
でもどうしても耐えられなくなったシネさんは
途中で髪をカットされるのをさえぎり
そのまま家へと帰ってしまいます。
無理もないです。
そして家の庭に椅子と鏡をだし、自分で髪を切ろうとします。
そこへあの世話焼きのキム社長が来て
さりげなくその鏡を持ち彼女の髪切りを
サポートします。
髪は庭に散ってゆきそこには
いつもようにのん気なお日様の光がささやかに射して
この物語は終わります。
その後シネさんはどうなるのか?
おそらくシネさんはもう、この日常の穏やかな光の中で
少しずつ立ち直っていくでしょう。
確かにシネさんは犯罪によって、強烈に人間に対するダメージを
受けてしまいました。
しかし彼女を心配する人間も、また宗教に依存する人でではあっても、彼女を元気にしたいという人間も、元気になってほしいと思っている人も、さらに周囲に何気なくいる
様々に彼女を助けようとするまっとうな人間達の方が、たった一人の、狂った異端な人間の犯人よりも、明らかに大勢のひとびとがそこにいます。
その人々は空気のように自分と共に暮らし、自分はその人々に囲まれて生きていることを、
次第理解していくでしょう。
私達の意識は安心という中にいる時とても安定します。
そして実は人間は意識していませんが日常性のほとんどを、安心しながら生きているのですよ。
そしてその日常性こそ個々の人々が、それぞれの自分で創りだしているものなのです。
本当はみんな意識していないけれど、
この世の安心は実は
無意識のうちに自分達が、創りだしているのですね。
人間が楽天的にいきているから、日常性が自然に流れていくのです。
そういう楽天性のなかでいきている、その典型であり
そのことを体現し象徴するのが、
シネさんの傍で、のん気におおらかに生きている、キム社長という人物です。
おそらく彼はイ・チャンドン氏の、理想の自己イメージだと
思います。
時間が経ち日々が過ぎてゆく中で、その人々と創りだす
穏やかな日常性こそが、彼女を癒していき、
私たちを生かしています。
人間はそういう風にして生き延びていくのだと思います。
〇
今、時代はどんどん生き苦しく、人間不信や、疑心暗鬼のほうが
跋扈しはじめています。
もともとある人間の中に内在し、無意識に繋がろうとするものを
私たちはとりもどさなければいけませんね。
どうしたらいいのか、考えていきたいと思います。
さて、心とは、自然の延長でもあるのです。