ドナルド・キーン著「足利義政と銀閣寺」を読んでいて、 ある記述にハッとさせられた。 |
ある記述にハッとさせられた。
それは当時の禅の僧侶たちが、自らを修するための禁欲として
一汁一菜の食事をとっていたが、
中にはそういう禁欲に耐えらえず贅沢を欲した僧が、
肉や魚を食べられないその代わりとして
麺類、豆腐、こんにゃく、湯葉、油げなどを工夫して
精進料理を作り出した、ということである。
つまり、本来は質素の極みである、一汁一菜でなければ修行にはならない所を
軟弱者の僧侶たちが、耐えきれず、そういう料理を思いついたということです。
そしてそれは民間にも広がり、日本料理の基礎が出来上がった。
私がハッとしたのは、人間とはそういうものなんだ、という気づきで、
執着を捨てる中から思想や文化が生まれる、と同時に
執着を捨てられない中からも、工夫や創意の文化が生まれるのだということです。
一方に囚われてしまってもいけないし、
一方に溺れてもいけない。
つまり、凝り固まらず、人間の中に存在する様々な要素を
そのまま、そのまま見なければ、そこにある豊かさを見逃してしまう。
人間は面白いです。
「禍福は糾える縄の如し」というように
幸福や不幸は、或いは良きことや悪しきことは
応仁の乱、という歴史上最悪な戦乱を引き起こした張本人である
足利義政が、政治的には無能でありながら、引きこもった東山の山荘で
日本の礎ともなる文化とその様式を創出し、それが
私の眼はハッと開かされてしまいます。
人間の根源には、いつも、何かを工夫し、創出しては生き延びる、ということが
ある。
それは単純な倫理や、規範や、常識の埒外に、人間の本質があり、
それがひらめきであり、
だからこそ、思いこみに凝り固まらず、いつも
頭の中が四方八方へと自在に動き廻っては遊ぶ、
そういう自分でいたいのです。
