<異世界界>ブームや<殺人物語>ブームを乗り越えて、未来を創る! |
どうやら今の若い人たちの漫画やアニメやゲームや映画は、
大きく二つのジャンルがあるようで、
トッテイーによるると<殺人物語>ブームは「進撃の巨人」あたりから
始まったのではないか、ということらしいです。
私は「進撃の巨人」も見たことないし、<異世界ブーム>の作品も
見たことがないので、何とも言えないのですが。
ただ、そこにはいわゆるリアル現実、
つまり普通に過ぎてゆく日々という現実は
ないらしい。
なぜ、その二つがブームになるかは、、もしかしたら、
若者たちの現実の抑圧がひどく、そのフラストレーションとして、
「殺人物語」が強い発散力をもっているのかもしれないし、
今の時代の閉塞感というか、未来が展望できないことが
バーチャル現実としての「異世界ブーム」になっているのかもしれません。
ただ戦後のある時期から、漫画やアニメのブームが起き、さらに
ゲームが盛んになりだしたことで、日本の子供たちが、
いわゆるバーチャルな世界にはまりだしました。
そこには、受験戦争を乗り越えていい大学へ行き
大企業に就職すれば、いい暮らしが保証されるという、
大人の浅はかな安易な欲望を託された子供たちの現実がありました。
つまり彼らが嵌まりこんだバーチャル世界には、
受験戦争に追いやられてしまった子供たちの夢を代理するものがありました。
しかし、
その漫画やアニメやゲームの行き着いたところが「殺人」や「異世界」だとしたら
私としては、なんともやりきれないなあ~と思うのです。
ただ、若者の立場に立ってみれば、なるほど今の時代は、
貧相な文化と、無能な大人たち、そして格差経済の現実において、
夢がない現実、未来への希望がみられない現実で生きるためには、
「殺人」や「異世界」しかないのかもしれないのです。
こういう今の若者たちの現実に対して、
私自身がただ、指をくわえてみているしかないことがもう
残念でなりません。
ただただ自分の無力感にさらされるのですが。
でもね、だからこそ、若者に
映画「どこかに美しい村はないか」~幻想の村遠野・児玉房子の世界~を
見てほしいのです。
これはそういう若者への私のささやかな贈り物です。
ここには、デジタル世界へ移る前のアナログな時代の面影があります。
人間が自然と共に生きていた時代の人間の力があります。
それは、本当にささやかな現実、そして
日々凡庸に過ごす中に在る大切なもの、美くしい自然の季節の移り変わりや、
それに包まれて生きてこそある、人の優しさであり、
どんな時代をもたくましく生きる人の力、人間の力です。
戦後、ひたすら経済発展を驀進的に走ってきた日本という国が、
お金、お金、という経済優先の価値が蔓延してしまった日本という国が
見失ったものはなにか。
こんな小さな国にも関わず、先進国として時代の先端を走り行き着いた先が、
若者に希望が見えない国としたら、何てこれまでが不毛であったかと、思います。
さらにAI時代へと走るのだとしたら、その前に足をとめて、
行きすぎた文明に対して、
私たちが見落としてきた大切なもは何かに気づく必要があると思います。
忘れてはならないことは、
人間は自然の一部であること。それは人間も自然の中から生まれ、
虫や鳥や動物たちと同じ<生きもの>であること。
花や草や空や山や水と同じように、
人間も自然の一部であること。
傲慢になり、不遜になり、世界を人間中心にしか発想できなくなった人間は、
自然に逆らい、地球世界を人間中心の世界へと作りかえようとしている。それが
AI時代に起きてしまうかもしれません。
デジタルで、バーチャルな頭になってしまった若者が
やすやすとそこに飲み込まれてしまうかもしれない。
しかしきっとそうでない若者もいる。
高度経済成長やテクノロジー文明世界の夢から醒めた時、
そこに見えてくるのは、
どっしりとした、そして時に厳しい自然の姿と、
相も変わらず、泥臭いかもしれないが、そこには人間の<存在>があると
私は確信している。
「作ることは、生きること」
機械やロボットが作るのではない、
AIがつくるのでもない。
しっかりと人間の手で、ものが生産されるとき、そこにこそ、
人間が人間たる所以、社会や文化とは人間が作り出すものである所以。
そして人間が自然の産物である所以が、自然と共に生かされれいる所以として
人間の存在が、いかに重要で、かけがえのないものであるかが
証明されると、思います。
それに気づけるといいね!
この映画はAIデジタル社会で失いそうな、
