映画「どこかに美しい村はないか」のタイトルは、 茨木のり子さんの詩「六月」からお借りしました。 |
茨木のり子さんの詩「六月」からお借りしました。
「六月」は、どこかに美し村はないか、
から始まる詩です。
それは茨木さんが探す理想の村、つまり理想の共同体です。
どこか宮沢賢治のポラーノ広場に似ており、
一節目にある、
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒(ビール)
鍬をたてかけ、鋤を置き、
男も女も大きなジョッキをかたむける。
では、私はどうしてもミレーの「晩鐘」という絵を思い出します。
私にとって<どこかにある美しい村>は未来の理想の村です。
その村では、原発も農薬も化学肥料もいらない。
かといって科学テクノロジーを使わない非近代的な村ではなく、
それら駆使しながらも、
過剰な欲望や、行きすぎた文明への適度な抑制を持ち、
自然と共に生き、
常に人間の尊厳と幸福を願う生き方にたどり着いた村(共同体)です。
そういう意味ではこの映画は、時代を先取りした映画でもあり、
もしかしたら、10年、20年、50年後にやっと
行き過ぎた文明がもたらす危機に気づいた人間が
気づいてくれるかもしれない共同体の姿です。
この詩は三節からなっており、
最期の節で茨木さんは
どこかに美しい人と人の力はないか、と謳います。
AIやロボットが人間に代わるのではなく、
人の力が大切なのです。
そして茨木さんは言います。
人と人の力、と。
つまり人が人と関わり、力を合わせて、時代を創るのです。
さらに
同じ時代をともに生きる
親しさと、可笑しさと、そうして怒りが
鋭い力となって、立ち現れる。
つまり友情や、ユーモアや反骨が、鋭いエネルギーと知恵になって
力強く、たくましく、時代を創っていく。
そこにこそ、テクノロジーはどんどん進化しても、
人間が人間たる所以、その本質とそして生きることの根源にあるものを
忘れてはならない、理想と希望がある、ということです。
六月
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる


