映画「どこかに美しい村はないか」私の映画論、その5、がちでぶつかっても映画の心はひとつ! |
さて、映画にとって音楽とはいかなるものか・・・?
音楽は常に直截的に<存在>へとかかわってきます。
音楽を映像作家は、どのように位置づけているかで
映像のもつメッセージは変わってきます。
一方、
理性体としてのカメラが映し出すのは、
対象のありのままの姿です。
それは美しさも醜さもそのまま私たちの視界へと
とびこんできます。
そして、
人間が細工して美しくみせようとしなくても、
<存在>そのものは、初めから美しく、
<現象>そのものは、
初めから面白いのです。
<存在>も<現象>も、もともとは<沈黙>の中にあります。
そして<存在>や<現象>をどう見るかが、人間の心なのです。
言い換えると<存在>も<現象>も
みる人の心によって解釈され、色付けや味付けが成されるのです。
この映画で言えば<存在>や<現象>をどのように心がみているかは、
児玉さんのガラス絵の中にある人間へのまなざし(心)がベースとなります。
さらにそれを足場にして、この映画をつくろうとしている能勢監督はじめ。
スタッフのまなざし(心)が映像を撮っていきます。
そして最後に映像に実存的に突き刺さるのが音楽のまなざし(心)です。
音楽は、温度(感情)とエネルギーをもっていますから、
それは直に心に刺さって行きます。
映像と音楽がどのようにこの映画の心を表現していくか。
そこが本当に映画の肝でもあります。
そして一般的な傾向として、映画において、音楽は
映像をより効果的にする背景として使われています。
温度のない映像を実存的にカヴァーするものとしての
音楽です。
ところが今回、この映画においては、
音楽を効果的に使うというより、
映像と音楽とが、がちに拮抗しているのです。
前回で書いたようにRakiraさんは、天才ですから
私たちが微細に演出的なコントロールをするのではなく、
むしろ、映像はRakiraさんの直観にゆだねられた形になりました。
私としては、かなりそこら辺を悩みました。
調和し、バランスを保てるかどうかです。
悩みました。
しかし到達した結論は
逆に、がちで映像と音楽がぶつかっても
おそらく映像と音楽で、
映画の心はひとつになるだろうと、いう
確信です。
正直のところ、ぎりぎりのところで、それが成ったと、
思います。
それは、
Rakiraさんの音楽には澄んだものがあり、
不思議にえぐさがありません。
えぐさとは自己執着の強い人間にあるもので、
Rakiraさんそのものがそういう属性のなかに生きていないからだと
思います。
Rakiraさんの音楽にも、人間賛歌が溢れています。
この映画がドキュメンタリー映画であるにもかかわらず、
いわゆる深刻でもなく、押しつけもなく、
反対に叙情豊かな映像詩になったのは、
能勢監督の映像とRakiraさんの音楽が、
ともに清々しく人間を謳いあげたからだと思います。
そしてこの映画の根幹にあるのは、
おおいなる自然の懐に抱かれて生きようとした児玉房子さんの、ガラス絵に託した思いと、
遠野の地で自然と共に生きようとする人々の生きざまが
そのままに美しく、豊かであるからです。
日本の原風景は美しく、遠野にはそれがそのまま残っています。
その大切なものが失われないように、
その祈りとしてこの映画を作りました。
皆さんにご覧いただけたら光栄です。
君たちの中のアナログな世界のこと
スマホのスイッチを切って、
この映画のやさしい世界へ来てみない
ガラス絵作家の児玉房子が描いた遠野の田園を
詩人の茨木のり子が謳う。
ばっちゃ達は腰をかがめて田植えをする
風のさざめきは森を抜けて
田畑で働く人々の汗をいやし
空一面の星が、人々の眠りを包む
5月16日(土) 5月17日(日)
人形町三日月座 地下ホール
https://www.facebook.com/mikazukiza78/
・横浜上映
5月23日(土)24日(日)
シネマノヴェチェント
http://cinema1900.wixsite.com/home
遠野市民センター大ホールです。
お会いできるのを、楽しみにしています
上映のタイムスケジュールは
追って詳しくお知らせいたします。
どうぞよろしくお願い致します。