2020年 06月 17日
アンジャッシュ渡部君をかばうわけではありませんが・・・。 |
テレビで漏れ伝わるアンジャッシュ渡部君のことを聞くと、
あゝこれは、彼の人格がどうのではなく、
ある種の心理病理ではないかと思います。
人間の感情がどんどん無機化していく病理です。
それは自分のことも、他者のことも、まるで
物のようにしかとらえられなくなる、病理です。
逆に
性的な排泄をする時だけ、
彼が人間としてなまなましさを感じる。
つまりセックスという生理の瞬間だけが、
彼の心も体もが解放され、
心も体もスッとし、
その瞬間だけ、自分が生きている実感を味わえる、という
疾患です。
その仕事ぶりの以上さや、上昇意識の過剰さ、
いつの間にか、仕事ロボットとして、自分の人間性を
お金に売り渡してしまう。
しかしそれは、大きなストレスとなり、
感性や感情の無機化が起き、
人間らしい思考が鈍磨し、
表面的快感だけが、自分が生きている実感になったのではないかと
思われます。
それが脳の報酬系の感覚現象となり、
セックスに対する依存が生まれてしまったのではないかと
思います。
だから彼にとってはただ、身体に詰まってしまったストレスを
吐き出す行為としてのセックス行為があるだけで、
それ以上の人間に対する情感や愛情などは全く関係なく、
行為だけが、
常態化してしまったのかもしれませんね。
しかしそうだとしたら、これは他人ごとではないです。
資本主義経済の過当競争の中で、
群を抜いて勝ち抜くということは、
そういう異常さを生んでしまうということです。
また常に情報社会にさらされ、巻き込まれ
過剰な情報の海の中で、
勝ち抜いて行かねばならないという脅迫観念が、
神経が病ませ、自分が追い込まれてゆくという、
病理でもあります。
自分の成功を維持していくには、一瞬の気のゆるみもなく、
いつかその人間の心と体を蝕んでいく。
特に現代社会は、ある特異能力やや、特殊技能が
どんどん賛美され、
テレビやユーチューブで公開される。
それは様々なジャンルで、もちろんスポーツも含めて
ひたすら勝つことや優勝することが目的化され、賛美され、
それがあたかも
人生の成功であるような、間違った錯覚が大手を振って
まかり通っている。
しかしそれは、
●その人間の自然性のバランスが失われる偏りになる、ということには、
気づかない。
ある偏りは、翻って、その人間の身心のバランスを
大きく欠いていることでもある、ということ。
或いは、その偏りによって、
その人間は別のことを失っている、ということ。
当然その成功はうぬぼれや傲慢さをも産み、
反対に、素朴な心や、大事なことが欠落していきます。
人間の自然性とはなにか。
現代の情報、テクノロジー文明の負の病理として
<いきもの>としての人間が激しく阻害されはじめていること。
そこには渡部君と同じような病理の人間が、
潜在的にたくさんいるのではないかと
私は思います。
<いきもの>である人間が、自然と調和することや
その牧歌性が著しく阻害されてゆくとき、
人間のなにかが壊れるとわたしは思います。
みどりの森がよろこびの声をあげて笑い
川がえくぼをつくり笑い流れるとき
空もわたしたちのはしゃぎに和して笑いころげ
緑の岡もそのこだまをかえして笑うとき
ウイリアム・ブレイク
こういうのどかで、牧歌的な世界を失うとき、
私達はどこか壊れると私は思います。
そういう意味ではぜひ私のつくった映画
「どこかに美しい村はないか」を見てほしいです。
これは、宣伝のためにそう言っているのではありません。
ほんとうに、大切なものを失い、人間の無機化が始まる前に
そう、気づいてほしいのです。
そのためにこの映画を作りました。

あゝこれは、彼の人格がどうのではなく、
ある種の心理病理ではないかと思います。
人間の感情がどんどん無機化していく病理です。
それは自分のことも、他者のことも、まるで
物のようにしかとらえられなくなる、病理です。
逆に
性的な排泄をする時だけ、
彼が人間としてなまなましさを感じる。
つまりセックスという生理の瞬間だけが、
彼の心も体もが解放され、
心も体もスッとし、
その瞬間だけ、自分が生きている実感を味わえる、という
疾患です。
その仕事ぶりの以上さや、上昇意識の過剰さ、
さらに、
それを維持持続することが、人生の目的となり、
いつの間にか、仕事ロボットとして、自分の人間性を
お金に売り渡してしまう。
しかしそれは、大きなストレスとなり、
感性や感情の無機化が起き、
人間らしい思考が鈍磨し、
表面的快感だけが、自分が生きている実感になったのではないかと
思われます。
それが脳の報酬系の感覚現象となり、
セックスに対する依存が生まれてしまったのではないかと
思います。
だから彼にとってはただ、身体に詰まってしまったストレスを
吐き出す行為としてのセックス行為があるだけで、
それ以上の人間に対する情感や愛情などは全く関係なく、
行為だけが、
常態化してしまったのかもしれませんね。
しかしそうだとしたら、これは他人ごとではないです。
資本主義経済の過当競争の中で、
群を抜いて勝ち抜くということは、
そういう異常さを生んでしまうということです。
また常に情報社会にさらされ、巻き込まれ
過剰な情報の海の中で、
勝ち抜いて行かねばならないという脅迫観念が、
神経が病ませ、自分が追い込まれてゆくという、
病理でもあります。
自分の成功を維持していくには、一瞬の気のゆるみもなく、
次々と新しい生産性を追求しなければならない、
その緊張と縛りの心理が
いつかその人間の心と体を蝕んでいく。
特に現代社会は、ある特異能力やや、特殊技能が
どんどん賛美され、
テレビやユーチューブで公開される。
それは様々なジャンルで、もちろんスポーツも含めて
ひたすら勝つことや優勝することが目的化され、賛美され、
それがあたかも
人生の成功であるような、間違った錯覚が大手を振って
まかり通っている。
しかしそれは、
●その人間の自然性のバランスが失われる偏りになる、ということには、
気づかない。
ある偏りは、翻って、その人間の身心のバランスを
大きく欠いていることでもある、ということ。
或いは、その偏りによって、
その人間は別のことを失っている、ということ。
当然その成功はうぬぼれや傲慢さをも産み、
反対に、素朴な心や、大事なことが欠落していきます。
人間の自然性とはなにか。
現代の情報、テクノロジー文明の負の病理として
<いきもの>としての人間が激しく阻害されはじめていること。
そこには渡部君と同じような病理の人間が、
潜在的にたくさんいるのではないかと
私は思います。
<いきもの>である人間が、自然と調和することや
その牧歌性が著しく阻害されてゆくとき、
人間のなにかが壊れるとわたしは思います。
みどりの森がよろこびの声をあげて笑い
川がえくぼをつくり笑い流れるとき
空もわたしたちのはしゃぎに和して笑いころげ
緑の岡もそのこだまをかえして笑うとき
ウイリアム・ブレイク
こういうのどかで、牧歌的な世界を失うとき、
私達はどこか壊れると私は思います。
そういう意味ではぜひ私のつくった映画
「どこかに美しい村はないか」を見てほしいです。
これは、宣伝のためにそう言っているのではありません。
ほんとうに、大切なものを失い、人間の無機化が始まる前に
そう、気づいてほしいのです。
そのためにこの映画を作りました。
※ブログにユーチューブを張り付けるのがうまくいきませんので、
こちらから入ってください。

by denshinbashira
| 2020-06-17 06:10
| 人間
|
Comments(0)

