2020年 10月 21日
人間が人間たる存在とは何かを ●思惟する最後の砦として
爬虫類の名残や、小動物の名残などが残っています。
それは脳の中心にある古い脳、大脳旧皮質としてあるのです。
つまり私達が生きるということは、人類史の続きの中をいきているのです。
そして辺縁系を古い脳とすれば、新しい脳である
大脳新皮質が古い脳をぐるりと取り囲んで、
理性の脳として働いています。
つまりIT社会になるまでの私たちは、
これらの脳と身体が、
脳のデジタル世界の情報と身体のアナログ世界を
微妙に巧妙にバランスをとりながら、生命活動が運営され、
私達の生命を生かして来ました。
ところがそのバランスがプッツンと切れてしまったのがIT社会の登場です。
つまり、自分の身体を使って情報を得るのではなく、
外からの、世界の情報ばかりが山のように頭の中に放り込まれるのです。
そしてなぜそうなるかの根本的な原因は、何よりも経済を優先するからです。
身体がストレスだらけなのに、
私達の限界を超えて、
洪水のような情報が優先され、
自分の脳で考えたことや、体が実感したことがおろそかにされて、
まるで夢遊病のように、情報社会現象中で自分が浮遊してしまうのです。
そして昨日書いたように、文化とは
<どう生きたらいいかを模索する>と言う中で生まれてきます。
勿論その中には経済の分野も含めてそうなのですが、
IT文化になって
自分の頭を使って考えるという行為が、情報を得る事に、
すり替わっている。
だからこそ、同調圧力なるものが、まかり通るのです。
自分の考えが、ぐらつくのです。
人間が進化するということは、
それぞれの人間の存在と自由が保障されることです。
それぞれが自分の脳と身体を駆使して、人間社会をどのように幸福に
導いていくかへの道を探すことです。
つまりIT文化やAI文化は、その利便性や高度な科学テクノロジーは
どのように人間の幸福へと使いこなしていくことであり、
その為には、
どこかで、これまでの歴史のアナログ性をきちんと担保していないと、
あやういと私は考えます。
悪くすると、利便性や、高度テクノロジーではあっても、
それが人間を分断し、
個々の存在を疎外することを。より加速することになりかねないと、
私は危惧するのです。
人間がこれまでの歴史や文化から分断されて、
ハメルンの笛吹きの童話の如く、一気にそういう中へ
連れ込まれないように、
人間として、どうあれば自分は充実し、幸福になれるか、という道を
もう一度模索してほしいのです。
そのヒントこそが
児玉房子さんのガラス絵のアナログな世界と、遠野の美しい田園にあり、
人間が人間たる存在とは何かを
●思惟する最後の砦として、
これまでの暮らしの中の
その風景が消えてしまう前に映画にしたのです。

映画「どこかに美しい村はないか」
~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~
10月24日(土)釜石PITで上映されます。
どうぞ皆さん見に来てください。
能勢監督と私も会場にいます。
10月31日(土)東京上映 日本橋人形町 三日月座映画館
まだ席はいっぱい空いています。
こちらも皆さん見に来てください。
詳しく映画公式サイトでみてください。
by denshinbashira
| 2020-10-21 06:58
| 映画「どこかに美しい村はないか」
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