映画を撮りながら、私の中で次々と変容が起きていった!その1 |
沙織さんから、映画を撮ろうと思った元々の動機などを
質問されるうちにハッと気づいたことがありました。
ハッと思ったことの導火線になったのは、
映画の音楽のイメージのことで、
私は最終的に映画に、まさかこんなポップな音楽をつけるとは、
夢にも思っていなかったのです。
皆さんもご存知の通り予告編№1は、
ドボルザークの「糸杉」という組曲の中の曲を使っています。
これが、私の最初の頃の映画のイメージです。
「糸杉」という曲は、一般にはあまり知られていない曲です。
この曲は、私が長年、自分だけの心の秘密の曲のように
大事に大事に、卵をかえすように温めてきた曲です。
つまりこの曲は、いわゆる通俗性がなく、
ドボルザークの心的世界が透明に高踏に極められています。
故に大衆化することもなく、一般には知られていないのです。
ドボルザークも生前には発表しませんでした。
そのドボルザークの曲の高踏さと、遠野風景とがまるで、
呼応しあうような映像イメージが、なんとなく、私の頭の中にあり、
さらに登場人物として、
男の子のような女の子、といかも女らしい女の子のその二人が、
遠野の中を歩きながら、
ガラス絵と遠野風景をナビゲートしていくうちに、ある瞬間にすれ違うというような
ものが、漠然としてですが、初期の構想のイメージとしてありました。
しかし、これはあくまでも、私の頭の中での観念的なイメージであり、
まあ、こういう感じでも、いけそうだな~という程度のものです。
ところが能勢監督に遠野を見て貰い、ガラス絵を見て貰い、
能勢監督の中で、プロの映画監督としてのイメージが作動し始めと感じた時、
私のそれは吹っ飛んでしまいました。
だから私のこの元イメージは、能勢さんには全くお話しませんでした。
プロの映画監督としての能勢さんが、
遠野の風景とガラス絵に感化されながら、
彼自身のオリジナルイメージが浮かんできたらしいということ。
以前にも何度も書きましたが、
遠野へ行く道すがらの車の中で、ぶっ通しで二人で話しました。
能勢さんの映画観や、
現代のドキュメンメンタリ―映画の実情に対する批判などを聞くうちに
かなり私自身の構想と一致するものを感じとりました。
決定打は、
人間は点景で撮る、ということと
さそり座が夜半から夜明けにかけて消えてゆく映像を撮るという
能勢さんの初期構想を聞いた時です。
あゝ、もうこれでいける、と私はほんとうに確信しました。
遠野での見学を終えた後、能勢さんの構想表(脚本)が出来上がり、
映画が立体的な構造を持ち始める中、撮影へと作動していきました。
一昨日、悦雄さんと沙織さんと話す中、
それは遠野の風景もさることながら、遠野での人との出会いの中で
まるで、優しい風ように起きていったと思います。
それは次回書きます。