なぜ日本の若者が、バーチャル(架空)文化に呑み込まれたか。 |
現実は、ほんとは寂しく、時に荒涼たるものだとということが
分かってきます。
しかし一方現実が荒涼たるからこそ、
人間は素晴らしい文化を創ってきたのだとも
思います。
人間はその想念の中で、様々なファンタジーを創出してきました。
現実の厳しさを乗り越えるために、宗教が生まれ、
殺伐たる現実を彩るべく、
芸術や技芸に花が咲き、そして
困難な現実を乗り越えて行くべき、
伝説や童話や文学などの
様々なるファンタジーの物語が
生まれました。
ただ、それらはいつも時代の現実との相関の中で、
バランスを保ち、双方向に働きながら、
人間という特殊ないきものを生かすためのソフトとして、
大きな役割をしてきたと思います。
文化世界で、架空世界がのしてきたかというと、
戦後から今日の流れの中に、私はその原因を見るのです。
戦後から今を、パノラマ的に見渡してみると。
戦後の焼け野原の何もない所から、日本は立ち上がってきました。
戦後の日本を支えてきたのは、金の卵と言われる中小企業の人々です。
かれらは地方の中学を卒業して集団就職をする中
懸命に働き、それは、あるところまで力強く日本を支えてきたと思います。
その経済成長で、段々日本が豊かになって行きましたが、
ところがそんな日本で、とても非現実的で奇妙な風潮が起きました。
それがいわゆる高学歴を目指す学歴社会という幻想(妄想)です。
受験戦争を勝ち抜き、いい大学に入れば、一流企業に就職でき、
いい暮らしが手に入る、という、とんでもない非現実幻想(妄想)が
日本の親たちの脳の思い込みとしてマインドし始めました。
その結果、子供たちは遊びを制限され、学校が終わっても
さらに受験というプレッシャーとストレスがのしかかり、それは
今なお、子供たちを苦しめていると思います。
よくよく冷静に考えると、いい大学にはいったら、一流企業に就職でき、
さらに人間の幸福という観点から考えてもありえないのですが、
それが新興神話のように社会を席捲しマインドコントロールしていったと
思います。
※ 残念ながら、そういう風に脳を形成している親たちは
いまだに多くいます。
そんな中で、子供や若者の解放区としてあったのが
漫画であり、アニメであり、ゲームである、という
バーチャル(架空)世界です。
それは嫌な勉強を強いられる子供たちの逃げ場として
日本中を席捲、網羅し、ある文化圏まで作り出していきました。
さらにそれが経済効果さえも産む、
有効な世界をも作り出していきましたから、
多くの若者は漫画を描いたり、アニメ作家にあこがれたり、
ゲーム世界で、ストレスを解消し、自分を忘れる一時を得ることで
ただ、創世記の漫画家たち、手塚さんも石ノ森さんも
逃げるのではなく、
●現実と戦うために漫画を書いたと思いますが、
それが、いつの間にか、
現実に嫌気をさした若者たちの中に
架空空間こそが自由で楽しく、未来志向できる場であり、
その反動として、
現実のフィールドでは、事なかれ主義や、傍観者や、
物事を斜めに見る若者たちを生み出し、
その逃げ場として、彼らの●脳世界を形成していったと思います。
脳は基本的には、快、不快の世界ですから、
彼らがバーチャル世界を快と感じれば感じるほど、
それが脳の中でシステム化していきます。
現実逃避がシステム化していくという事です。
そして彼らのシステムの大きな欠陥は
実存体験の欠落です。
●育成期の人間関係の中から、
紡がれ、育てられる体験知や経験値です。
その体験知や経験値が
圧倒的に不足すると、
私の周囲にいる若者の多くはこういう病理の中で生きており、
自分の個的世界に引きこもり、
なまなましく生きることを嫌い、
妄想の二次元世界の中に生きており、
それは私から見ると、一種の病理現象として見えます。
いまだにニートやパラサイトとして生きている若者も
たくさんおり、彼らを含めて今の日本が
バーチャル文化圏に染まっていった結果が
現代の架空世界の氾濫現象を生み出していると思います。
架空世界しかみえなくなった若者をカウンセリングするとき、
彼らの世界観を一枚ずつ剥ぎ取っていきます。
しかし
それはとても難儀であり、大変なエネルギーが必要です。
そんな中、やっと目が覚め、現実が見えてきた若者によると、
今流行っているのはおおよそ、殺人と異界をネタにしたものばかりだそうです。
殺人の暴力をみてスカッと憂さをはらし、
異世界で希望を見出すそれは
私の眼には、大きな社会病理としてあるように思います。
架空の中で葛藤し、架空の中で戦い、
架空の中で勝利をえたその感覚と感性が
そのまま、現実へとスライドしていく、という病理です。
その典型が京アニ事件であり、それはまさに氷山の一角としてあること。
実は現代社会の中ではその架空世界がデフォルト現象のようになっており、
つまり妄想がデフォルトの社会になっているとしたら、もう
それは大変恐ろしいことでもあります。
ただ、ただね、
その一方では、現実を足場にした若者もいます。
私がプロデュースした映画の中では、それを希望をとして
能勢監督が描いてくれました。
しっかりと現実を足場にして、
しっかりと現実に係り、社会に係り、
さらに現実的な経済を創出してゆく若者です。
これから都会ではさらに個々の分断が進み、その反動として
いよいよ殺伐としてくる中で、人間がおかしくなっていくかもしれません。
現実的には、無用の人間が増えていくかもしれません。
それでもね、行きつくところまで、行きついた時、
人間は、ハッと目を覚ますかもしれません。
架空の世界ではなく、
これまで人間が築いてきた歴史や伝統のアイデンティティーの上に
しっかりと仁王立ちし、
人間、社会、そして自然と生きることを見直し、
足元の大地にコツコツと大地に種を撒き、育て、実らせていく。
そういうところからやり直さなければならないことに
気づくかもしれませんね。
しっかりと目からウロコを取り、
現実を直視し、
社会の動向がどうなろうとも、
しっかり自分を生き抜ていく。
もう後がない私は、それを願って
書きました。
