2021年 01月 21日
良寛の書、すべての固執から解き放たれて! |
読みたいと思いつつまだ、読めていないものに
空海と最澄の往復書簡「風信帖」がある。
空海、最澄ともに唐に留学するが、
最澄は自分より2年の長く唐で学んだ空海に
教えを乞うている。
私は、書などあまりわかる人間ではないが、
それでも空海の字には風格があり、最澄の字には
繊細さを感じる。
そして、それぞれの字には格が滲みでている。
格とは身分や教養の高さ、そして指導者として自覚などがあるが、
残っている画像の風貌を見ると空海はいかにもスケールが大きく
商才も含めた宗教プロデューサーという感じであるが、
最澄はあくまでも、学究の人にように見えるし
貌が優しい。
私ばどちらかというと最澄のほうが好きかな~。
そういう空海や最澄にくらべたら、良寛はただのひらの
ぺいぺ坊主であり、
指導者になろうなんて気は、サラサラありませんから、
二人に比べたら、軟弱ささえ感じられる。
本当に若い頃、たぶん三十代の終わりか、四十の初め頃、
良寛にあこがれて長岡、出雲崎を一人旅しました。
その時出雲崎の「良寛記念館」で良寛の写経をみました。
なんというか、まるでほったらかされた字のように
力が抜けているのです。
普通なら止めのところで力が籠るはずなのに、
そこが竹のようにス~っと抜けている。
字を書くときの呼吸が、まるで自然であり、
息を止めることすらしようとしていない・・・・。
写経の漢字が、こんなにス~ス~と力が抜けていることに
一種っほほえましい笑いがおきました。
吉本隆明氏は、良寛の字はいわゆる渋滞がないと書いています。
私は、あまりに自然たる集中の中で、
写経という修行も、漢字という固さも忘れて、
ひたすらに字を書いたのではないかと思います。
山深い五合庵のし~んとした静まりの中で、
良寛はもしかしたら、一字一字を声を出して読みながら、
写経していたかもしれず、
そこには全ての外的世界から解き放たれた解放が
有ったかもしれませんね。
良寛の書の流麗さは、
松岡氏が評したように
いつ捨てられても、いつ忘れられてもかまわない、という風に
固執から離れ、
思います。


空海と最澄の往復書簡「風信帖」がある。
空海、最澄ともに唐に留学するが、
最澄は自分より2年の長く唐で学んだ空海に
教えを乞うている。
私は、書などあまりわかる人間ではないが、
それでも空海の字には風格があり、最澄の字には
繊細さを感じる。
そして、それぞれの字には格が滲みでている。
格とは身分や教養の高さ、そして指導者として自覚などがあるが、
残っている画像の風貌を見ると空海はいかにもスケールが大きく
商才も含めた宗教プロデューサーという感じであるが、
最澄はあくまでも、学究の人にように見えるし
貌が優しい。
私ばどちらかというと最澄のほうが好きかな~。
そういう空海や最澄にくらべたら、良寛はただのひらの
ぺいぺ坊主であり、
指導者になろうなんて気は、サラサラありませんから、
二人に比べたら、軟弱ささえ感じられる。
本当に若い頃、たぶん三十代の終わりか、四十の初め頃、
良寛にあこがれて長岡、出雲崎を一人旅しました。
その時出雲崎の「良寛記念館」で良寛の写経をみました。
なんというか、まるでほったらかされた字のように
力が抜けているのです。
普通なら止めのところで力が籠るはずなのに、
そこが竹のようにス~っと抜けている。
字を書くときの呼吸が、まるで自然であり、
息を止めることすらしようとしていない・・・・。
写経の漢字が、こんなにス~ス~と力が抜けていることに
一種っほほえましい笑いがおきました。
吉本隆明氏は、良寛の字はいわゆる渋滞がないと書いています。
私は、あまりに自然たる集中の中で、
写経という修行も、漢字という固さも忘れて、
ひたすらに字を書いたのではないかと思います。
山深い五合庵のし~んとした静まりの中で、
良寛はもしかしたら、一字一字を声を出して読みながら、
写経していたかもしれず、
そこには全ての外的世界から解き放たれた解放が
有ったかもしれませんね。
良寛の書の流麗さは、
松岡氏が評したように
いつ捨てられても、いつ忘れられてもかまわない、という風に
固執から離れ、
写経も書もが、
その極みを放つ字であったからかな~と、
思います。


by denshinbashira
| 2021-01-21 06:19
| 良寛の世界
|
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