◆作家の眼、その2,全部見る、逃さない・・・高村智恵子! |
彼女に関することを
あらいざらい調べていくと、
そこには定型的な人間像をはるかにしのぐ
智恵子という人間が立体的に現れてきた。
その智恵子は、光太郎の幻想を逸脱して、
ユニークなナルシストであり、
しかしどこかいびつで
そのいびつさが美しさにもなり、力づよさにもなり、
智恵子は光太郎の凡庸さをはるかに超えていたと、
私は思う。
さらに発病してからの智恵子は、
素晴らしく行動的でダイナミックである。
光太郎に閉じ込められた家の雨戸をけ破り外に出て、
、
隣家の垣根を超え、木によじ登り、そこから威嚇し、
はてには家の前に仁王立ちになり、
通行人に「東京市民よ・・・・」と演説を始めた。
彼女の内部に封印されていたエネルギーが一機に噴出し、
観念から解き放たれた時、
人間とはかくもエネルギッシュであるかと
驚愕するしかない彼女が現れる。
そしていよいよ彼女の中がカタルシスされた時、
あの美しい紙絵の世界が現れてきた。
そこには詩情が溢れ、
力強さと共にやさしさや女らしい奥ゆかしさが
美しい色彩とフォルムの紙絵になり、
彼女の原形が少女のように出現してきた。
作家の眼は、幻想を書くのではない、と私は考えている。
人間とは何か。
人間のうわっつらの表皮をはぎとり、その人間の内部を凝視し、
隈なく見透かし、見渡した時、
そこには、おそれおののき蹲る、ちいさな存在が見えてくる。
しかし、しかしである、その内部には
宝物のような生命力があり、エネルギーがあり、
懸命に生きているひたむきさがあり、
それが素晴らしいのである。
誰もかかなかった智恵子、そして賢治、そして一葉は
誠に人間らしい、人間臭い。
その光と陰の全てがもがきあがき、錯綜し、躍動し、
常識の観念を逸脱し、その人間の寂静(純粋な境地)へと
結実した時、
人々は感嘆し、共感し、感動し、彼らの生の息吹きを受け取る。