◆「空飛ぶ宮沢賢治」12「銀河鉄道の夜」の謎を解く6最終回「あなたのすきとほったほんとうのたべものになることを。」 |
どうしても、人間に、偉人だとか求道者だとか
自己犠牲の人だとかの幻想のレッテルを張っることに
違和感があります。
それは賢治だけでなく、これまで書いた樋口一葉も、高村智恵子も
そこに人間としての複雑で複層的な断面を見ざるを得ないからです。
一葉は単なる赤貧を生きる親孝行娘ではありません。
彼女の内面には、男ですらひるむような体当たりの行動や女の矜持世界があり、
智恵子は光太郎の幻想を生きながらも、
一方では親兄弟を案じるごく普通の女性であり、
その自我の軋みで苦しみました。
賢治の場合も何かきっちりと分かりやすくと嵌められた賢治のフレームに
違和感があり気になって仕方ありませんでした。
さらに「春と修羅」の詩と序文の謎めいたことばも
なんのことやらチンプンカンプンで分からない、というのが
本当のところでありました。
しかし、
三十代の中頃の或る日「春と修羅」の序の文の意味が
目の前がいっぺんに開けたように全部わかったのです。
また、人間の脳のことを学ぶにつれ、
人間も人間という現象のひとつであることが
分かってきたきたことで
私の脳の中の賢治データーが、
一気に連結し、解凍したように思います。
その時、賢治という人は、偉人とか求道者とか自己犠牲という
通俗的な範疇をはるかに超えた、
いわば脳センサーが飛躍して現象化するゾーンの人ではないかと
思いました。
また、賢治の作品を片っ端から読むにつれ、
初期、中期の詩や童話は、
その躍動やユーモアや色彩がキラキラしているのにくらべ、
「羅須地人協会」あたりから賢治の言葉がちぢみだし、
「銀河鉄道の夜」は葬送行進曲のような憂鬱さがあり、
失速していく賢治の息苦しさを感じました。
以来、あゝ考えたり、こう考えたりして
30年余ばかり賢治を追いかけてきましたが、やっと最近
賢治は、こうだったのではないか、ということが見えてきたと、
いう訳です。
さて今日最終回としてお伝えしたいのは「グスコーブドリの伝記」です。
あの恐ろしく厳しい挫折を賢治はどのようにのりこえようとしたのか、
そのヒントが「グスコーブドリの伝記」ではないか、と思いついたのです。
「グスコーブドリの伝記」の原案は「グスコンブドリの伝記」で
私は「グスコーブドリ」より伸び伸びとした「グスコンブドリ」のほうが
いい作品だと思います。
一方「グスコーブドリ」の文体は、遠慮がちで、「グスコンブドリ」にあった
おちゃめでユーモアの部分が削除されてあります。
なぜ賢治は「グスコンブドリの伝記」を
「グスコーブドリの伝記」に書き直したのか。
「グスコンブドリ」は昭和6年頃書かれたのではないかという説がありますが
それもはっきりとはわかりません。
そして「グスコーブドリ」のほうは昭和7年の3月には発表されていますから
明らかにあの「雨ニモマケズ」の挫折より6か月くらいあとになっています。
あの挫折の後明らかに賢治は「グスコンブドリ」に手を入れたと思われますが、
もしかしたらあの後、少しずつ心の傷が回復しはじめるのと同時に
賢治は、以前書いた「グスコンブドリ」を杖にして、
「グスコーブドリ」へと推敲しながら
なんとか自己回復をつかもうとしたのかもしれないな~とも思うのですが、
それも本当のところは分かりません。
しかしおそらく前回書いたように、賢治の中では、
まるで「「常不軽菩薩」のように自分を最も下に置き、
謙虚に慎ましく生きようとする
新しい賢治が、生まれたのではないかと思います。
これも私の推測であり、ほんとうのところは分かりませんがしかし、
賢治はその辞世の句(昭和8年9月20日)
「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」ではもう
晴れ晴れとした賢治がおり、
昭和6年、7年そして8年を経るその短い時間の中で、
おそらく賢治の中になにか悟りに近い大きな変容が
起きたのではないかと思いました。
そして賢治の臨終の時のエピソードを読み返し、ハッとしたのです。
つまり「グスコーブドリの伝記」は賢治の決意表明ではないかと。
或いは決意表明とまではいかなくとも、
自分が生きる道はこういうことしかない、とある種の覚悟と決意をした。
あの大きな暗渠のような挫折の中で、賢治は
求道の人とか自己犠牲の人となどいうような、甘いものではなく、
もうそこにしか自分の希望を見いだせない、或いは
そうでないと、自分の生きようとするエネルギーが
もう湧いてこない、という
ぎりぎりのものではなかったか、思います。
そのぎりぎりの自分を生きながら、自分を突き放して相対化し
何がどうであったか、自分のつまづきの原因は何であったかを
賢治は真剣に考え、正直に一つずつ一つずつごまかさずに
向き合ったのではないかと思います。
本当は何年も、もしかしたら何十年後にしか気づけないことも
賢治はごまかさずに検証したのではないかと思います。
そしてあの真っ青な空のような境地にいたったのではないかと
思います。
そしてそれは、
まさしく最後、亡くなる寸前、
正座して律義に農民の前に座る賢治の姿の中に、
最後の賢治は、昭和8年9月19日夜、花巻の祭りの最後の日、
夜更けに帰る神輿を自宅の店の軒下で迎えていました。
勿論体は衰弱しています。
それを見た農民のひとりが「先生はもう丈夫になられた」と勘違いして
よく20日朝に肥料相談に訪ねてきました。
賢治は居住まいを整え、数時間その農民の相談に応じました。
そのあと、急に呼吸が不全になり、来診した医者は急性肺炎の兆しがあることを
告げました。しかしその夜、もう一人農民が肥料相談にきました。
家人達はハラハラしたのですが、賢治は
「そういう用事なら、会わなくては」と着物を着換えて店の板敷に正座をして
相談者の話に応じました。
その姿は、足がどんなにしびれても正座を崩さない賢治であったと
荘已池氏が書いています。
その翌日、賢治はとうとう逝ってしまいました。
拙著「空飛ぶ宮沢賢治」のあとがきに私は
もう賢治は民衆に自分をあげたのだと、書きました。
人々の前に自分を差し出す賢治。
そこにはもう何の執着もなく、皆と共に生き、遊び、働き、すべてを
やり切った賢治がいるのではないかと思います。
それは
あの詩「雲の信号」のように
「あゝいいな せいせいするな 風は吹くし 農具はピカピカ光っているし」
そして
「わたくしは、このちひさなものがたりの幾きれかが、
おしまひ、あなたのすきとほったほんとうのたべものになること
どんなにねがふかわかりません」
の賢治、
~終わり~
