シリーズ・終わりを意識して書く第一章、12.最終回。 |
どうやら漱石は、ドストエフスキーの作品を殆ど全部読んだらしい、と江藤淳氏が書いていました。
やっぱりそうだったのか。
それで漱石の「則天去私」の思想とドストエフスキーの行き着いた地点とが似ていると思った事の合点がゆきました。
ドストエフスキーの最後の作品「カラマーゾフの兄弟」のテーマは父親殺しです。
誰が父親を殺したのか?
最終的には、父親殺しの犯人と思われる婚外子のスメルジャコフは自殺し、
長男のミーチャ(ドミトリー)が、犯人の濡れ衣を晴らせないまま判決をうけ、シベリアに送られます。
なぜドストエフスキーは、こういう結末にしたのか。
苦しみ苦しみ抜いたドストエフスキーが、最後に辿りついた結論が、
人間の業は消す事はできない、しかし、その先がある、という事ではなかったか、と私は思うのです。
ミーチャは、ほんとうは気のいい青年ですが、
金銭も、生活もだらしなく、放埒に生きています。
言動も支離滅裂です。
ただ周囲の目から見ると、遺産争いの中、金に困っているミーチャがいかにも父親を殺しかねないようにみえます。
そして彼の婚約者であったカーチャが
彼を犯人とする決定的な証言をしてしまいます。
それを覆す証拠もないまま、ミーチャに判決が下ってしまいました。
ミーチャはこの判決に従うしかありません。そしてシベリアに護送されていきました。
ただ小説の行間から見えてくるのは、ここからが始まりだよ、と言っているドストエフスキーです。
自分の業のまま、放埒にやりたい放題のことをしたミーチャのほんとうの人生は、ここから始まりるよ、と、
ドストエフスキーが言っているように、私には思えました。
漱石と同じです。
自分の運命の始末を自分でつけていくところから人生に微かな光が刺してくる。
つまりドストエフスキーの主人公達も最終的には、運命に逆らわず、それを受けいれるところから、再出発し、生き延びてゆきます。
◯ ◯ ◯
ドストエフスキーが生きた時代は、それまで圧倒的にヨーロッパを征していたキリスト教が衰退し神の不在が囁かれ出す中、
一方では無神論や唯物論や唯物史観が、台頭してきます。
ヨーロッパの人々が拠り所にしていたキリスト教という柱が大きく揺らぎだし、それまでの価値や意味が崩壊するという、大きな時代の転換期です。
ロシアでもマルクス主義や社会主義が台頭してきて、ドストエフスキーは社会主義者のサークルに参加し捕らえられてしまいます。
判決は死刑でしたが、銃殺される寸前で恩赦がでて、シベリアへの流刑となり、シベリアで四年間刑に服します。
そのドストエフスキーに何があったかはわかりませんが、
彼は人間の悪意や狂気や偽善や虚栄やナルシズムを書いていきます。
ただ、彼の作品群を読んで私が感じるのは、
ドストエフスキーは人間の闇や狂気を暴こうとしているのではない。
彼はそれらに翻弄される人間達のその闇の奥にある微かなもの。
それは微かにしか見えず、壊れやすく、不確かではある何か。
人間を追求するといえばあまりに安易であり、
人間の幸福を問うといえば、
あまりにも軽薄で偽善すぎる。
もう訳がわからなくなるが、彼は確かに、人間の何かを探している。
おそらくドストエフスキーが探し当てたものと漱石が探し当てたものは、同じではないか、と私は思うのです。
多分それは、小さな微かな愛の世界で、
シベリアから帰ったドストエフスキーは社会主義から反転してキリストイエスの世界を探し始めます。
それは、死後3日で復活する奇跡のイエスではなく、
イエスが唱えた幼児のように純粋な愛の世界ではないか、と思います。
「カラマーゾフの兄弟」の中で、神の再来のように慕われ尊敬されたロシア正教の長老ゾシマも、
実は脛に傷を持つ訳ありの人物であり、
彼の死後信者達は復活を期待しますが、彼の遺体は腐食していきます。
これは私の独断の考えですが、
ドストエフスキーはキリストの教えの周囲のいわゆる奇跡のエピソードを削ぎ落として
ただイエスが唱えた小さな小さな愛だけを取り出して、手のひらに乗せたような気が、私にはするのです。
だからこそ、愚かに放縦に自分を扱ったミーチャは最も厳しく刑に処されました。
しかしそれでもミーチャはそこから微かに見える光を辿りながらその先の人生を生きねばならない。
むしろ、そこからが彼の真の人生が始まりである、と、あの結末を書いたのでないか、と、わたしは思います。
それは、大仰ではなく、見ることができないほど微かかもしれず、
もしかしたら無いかもしれないが、おそらくある、というのが、
ドストエフスキーの作品を読んで漱石が書いた「至純至精の感情」の世界ではないかと、思います。
ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」を書き終えた数ヶ月後に亡くなります。
力尽きたように亡くなります。
漱石も「明暗」の途中で、息が尽きてしまいます。享年50歳です。
私はオメオメと生きて76歳になります。
76歳になってやっと、漱石やドストエフスキーの書こうとした事が少し理解できました。
人はみな、いかなる人の心の奥の奥には、
一点の「至純至精」の光があること、
ドストエフスキーも漱石も、その眼差しの先に、
それを見ていたこと。
私も、
端正な彼らの「知の世界」の後を追いながら、
その末の末の末席に、
ちょこんと座らせて貰えたことが、
この上なく、嬉しいです。
ただただ、嬉しゅうございます。
終わり。
